2014年03月28日

1万年前、名古屋の半分は海の中だった・・「名古屋の歴史」は地形から

「名古屋の歴史」というと、江戸時代、徳川家康が清須から町ごと引っ越して(清須越)、この地に名古屋城を築城し、九男:義直に治めさせた(=尾張徳川家の創設)・・というところが起点になることが多いようです。

しかし、おそらく、その清須越まで、わずかな建造物・民家を除いて、原野と雑木林が大部分を占めていたであろう名古屋中心部が、どのような背景で形を変え、今に至っているのか? そもそも、徳川家康は、なぜ、この地を選んだのでしょうか?

名古屋中心部を自転車で活動していますと「高低差」に敏感になります。そこで、私が自転車で活動するエリア(金山⇔大須⇔伏見)を中心に、名古屋の生い立ちについて考えてみたいと思います。

1万年前、名古屋市の半分は海の中だった!
唐突ですが、下の図は、1万年前の名古屋周辺の海岸線だそうです。
DSC09019 - 縮小.JPG
点線は、現在の行政区の境界線のようですから、現在の北区、中村区、西区、中川区、港区の、ほぼ全域と、熱田区、南区の大部分が海の底だったようです。*「名古屋市歴史まちづくり戦略」より

これだけだと、ピンと来ないかと思いますが、下の図と合わせて見ると「1万年前の海岸線」が理解しやすいのではないでしょうか。
DSC09014 海岸線との照合2.JPG 
この標高図は、1万年前の名古屋周辺の標高図・・ではなく、実は、現在のデジタル標高図です。
実は、隆起や陥没など、地形に大きな変化があったのは、100万年単位の大昔の話で、最終氷河期が終わったあと、今から1万年くらい前には、おおむね、現在の地形ができ上がっていたそうです。よって、海岸線の変化は「海面の上下」によるもので、逆に、氷河期には、海岸線が伊勢湾の外側(太平洋)まで下がっていて、現在の伊勢湾や三河湾は「平野」だった時期があったそうです。

上記の1万年前の海岸線の地図で、黄緑色の部分は、すべて洪積世に形成された台地ですが、名古屋城や現在の栄や錦・丸の内など名古屋の中心部が名古屋台地、東別院・山王通から南の細長い茶色の部分は、象の鼻と呼ばれる熱田台地 と、分けることが多いようです。

「金山駅より北が名古屋台地で、金山駅より南が熱田台地」という記述を見たことがありますが、金山駅の線路は人工的に掘られたもので、地勢的には続いているものですから、その分類方法は、違うような気がします。いずれにしても、かなり頑強な地盤だそうです。

熱田神宮は「象の鼻」の先端に作られ、徳川家康は、台地の北端に名古屋城を築き、「象の鼻」の西端に沿って堀川を作りました。台地の西には名古屋駅がありますが、名古屋駅が作られた当時は沼地だった・・というのも頷けます。そして「象の鼻」がもっとも細くなる金山付近を削って、現在のJR東海道本線を通し(名古屋の鉄道史については別途)、「象の鼻」の東端には、大津通が走っています。

「名古屋の海岸線」に与えた要因  *2015年2月13日:加筆
さて、海面の上下、地質的な要素以外にも、名古屋の海岸線に影響を与えたものがあります。それは、江戸時代以降の新田開拓のため、また、明治以降、工業用地確保や名古屋港建設のため、埋め立てられた・・ということです。熱田区の「一番〜八番」とか、港区「九番」、中川区「十一番」という地名は、江戸時代の初期、新田造成のために埋め立てられた区画番号のようなものだそうです。以下の図は、江戸時代前の海岸線です。熱田区の西側から庄内川まで、現在の国道1号線周辺が波打ち際だったようです。伊勢湾は遠浅ですから、砂浜が広がっていたのでしょうか。
中世末期.JPG  *「名古屋市歴史まちづくり戦略」より
熱田神宮の南の「宮の渡」は、現在は、埋立地の奥の奥ですから、波が立つことは稀だと思いますが、当時は、伊勢湾の荒波が、直接、押し寄せていたことになります。そう考えると、中川、江川、精進川などの河川は、満潮時の逆流が、相当激しかったのでしょうか。

「1万年前の海岸線」を検証してみる
ここで、冒頭の「1万年前の海岸線」に戻ってみましょう。標高図の茶色の部分が陸地だったことは容易に推測できるのですが、名古屋台地の東側の海は、どのあたりだったのでしょう?
*便宜上、名古屋台地の東側の海を「熱田湾」と称することにします。

まず、標高図に、現在の地名を書き加えてみました。
推定海岸線5.JPG
つまり、「湾」状になっていたのは、北は山王通、西は大津通、東は名古屋高速大高線に囲まれたエリアだったようです。大津通については、下で詳しく触れますが、東側は、白金、円上、高辻、雁道、牛巻、堀田の各交差点から東に向かって、かなりの上り坂になっています。特に、円上交差点から村雲小学校に上る坂は「崖」と言ってもいいくらいの急勾配です。

冒頭の海岸線の図をズームし、北の波打ち際を検証してみましょう。
DSC09019 - 波打際.JPG 推定海岸線2.JPG
「1万年前の海岸線図」の点線は、現在の行政区の境界線のようですから、この図に限っていえば「湾」の北端は、現在の中区と熱田区の境界の数キロ北、中区と昭和区の境界線が東に曲がったあたりのようです。

中区と昭和区の境界線は、新堀川の東岸(左下の画像の右岸)で、新堀川とJR中央本線がクロスする地点から、中央本線に沿って東(右下の画像の右方向)に向かいます。
0331 (1)東雲橋から北方面 - 縮小.JPG 0331 (5) - 縮小.JPG
そんなこんなで、2枚の地図から推測すると、現在の山王通あたりが「湾」の北端、つまり「波打ち際」だったのでしょうか。

ただ、海面の高さは、月の引力によって、一日の中でも2メートル以上変化しますから、ましてや文明が未開発だった時代、すべてを自然に委ねた時代、当時の「波打ち際」は、一日の中でも数キロにわたって移動していたのではないでしょうか。どなたか、絵心と想像力を兼ね備えた御方、イラスト図を描いていただけませんでしょうか。

ところで、私が住む「波寄町」は、地名の由来がわかりやすいです。ちなみに、中央本線が通る前も、中央本線が通るようになった後も、中央本線の北側(現在の中区)まで「波寄町」だったようです。もっとも、当初、中央線は単線・地上線だったため(中央線が高架になったのは、終戦後)、線路ができたからといって、町が分断されたような印象はなかったでしょう。

熱田湾(?)を考えてみる
鎌倉時代、京都と鎌倉を結ぶルート(鎌倉街道)が重要だったのですが、鎌倉時代に入っても、このエリアは、海なのか?陸地なのか?どちらとも言えないような低湿地だったようです。京都から鎌倉を目指して東に進み、露橋→古渡町までやってきて、ここから笠寺に渡るために・・あるいは、鎌倉から京都を目指して東海道を西に進み、名古屋が近づくと北に向かい、笠寺から古渡町に渡るために、どんな選択肢があったのか? これについては、機会を改めたいと思います。

葉場公園は船着場だった?  *2015年2月12日:加筆
平和小学校の南にある葉場公園は、「鎌倉時代は船着場だった」という記録が多いのですが、これは、満潮時、引き潮に乗って笠寺方面に渡ったか、精進川(現在は新堀川)から水路を掘って、精進川を下ったか・・だと想像しています。また、何か判明したら、加筆します。

戦国時代に入ると、桶狭間の戦いの際、「織田信長が、日置神社・熱田神宮に立ち寄った」という記録があるようですが、大軍は、どのようなルートで戦地に向かったのでしょうか?

新堀川が作られた理由   *2015年2月12日:加筆
時代が流れ、だんだん海面が下がり、この熱田湾(?)が「湾」ではなくなっても、以前として低湿地だったようです。雨が降ると、水は低い方向に流れますから、このエリアには精進川というものが流れていたそうです。しかし、高低差がないため川の流れが悪く、明治時代に入っても、「大雨が降るたびに川の位置が変わる」という状態で、町作りには、大きな足かせだったようです。そこで、作られたのが「新堀川」であり、この件についても、機会を改めて詳しく触れたいと思います。


自転車生活で「象の鼻」名古屋の高低差を検証してみる
さて、下の図は、標高図をズームしたものです。伏見通から久屋大通までの名古屋中心部は茶色で標高10m以上あるのですが、伏見通から西は、堀川に近づくと緑色(標高4〜5m)に変わり、堀川を越えると、一気に水色(標高1m)のエリアが広がります。東側も、久屋大通(矢場町以南は前津通)から東に向かって緩やかな下り坂になっており、東新町あたりは、緑色になっています。
DSC09029 - 栄周辺:縮小.JPG 

下の画像は、錦通久屋(オアシス21がある所)の交差点から東(東海テレビ方向)を見たものです。左手の建物は、芸術文化センターです。右の画像は、東から芸術文化センターを見たものです。緩やかな傾斜がわかりやすいかと思います。
・ (52)芸術文化 - 縮小.JPG ・ (59)芸術文化 - 縮小.JPG
下の画像は、広小路沿いのグリーンビル(ヒルトンホテルの向かい)を、堀川を背にして西から東向きに撮ったものです。
0 (7)広小路グリーンビル - 縮小.JPG

名古屋台地の北端は絶壁!
高低差が顕著なのは、台地の北端です。茶色から緑色への変わり方は「絶壁」ぶりを物語っています。名古屋城を北側から見ると、非常に説得力があります。
DSC09037 ズーム縮小.JPG ・ (116) - 縮小.JPG
名古屋城築城の際、根石(石垣の一番下の石)を置いてから、わずか10日間で本丸の石垣が完成した・・という記録が残っているようですが、これは、地形に沿って石垣を組んだことによるのではないでしょうか。

また、上の標高図の中央やや右、かつて美宝堂で有名だった「清水口」の交差点から北(黒川方面)に向かう国道41号線の下り坂は、名古屋屈指の急勾配です。画像は、国道41号線、黒川(北)を背にして清水口交差点方向(南方向)を撮ったものです。
・ (79)清水口 - 縮小.JPG

久屋大通で高低差を検証してみる
高低差は、久屋大通でも実感できます。100m道路として親しまれている久屋大通は、広小路周辺ではフラットですが、標高図でもわかるように、ラシックあたりでは、北向き道路は茶色、南向き道路は緑色になっています。
久屋大通2.JPG ・ (47)三蔵通 - 縮小.JPG ・ (49)中日ビル - 縮小.JPG
中央の画像は、久屋大通の北向き道路と南向き道路を結ぶ三蔵通のパノラマですが、特に細工をしたわけではありません。花壇の高さから、左手に写る三越・ラシックから右端の久屋大通(南向き)との高低差が実感できると思います。右の画像は、中日ビルの南端=郵便局です。

ちなみに、現在の久屋大通は、江戸時代から戦前まで、2本の道路でした。現在の北方向の道路は南鍛冶丁、南方向の道路は久屋丁と表記されており、2本の道路の間には普通に民家が立っていたようです。
鼠坂・堀田坂.JPG
そして、現在、久屋公園になっているエリアは、江戸時代から戦前にかけて「坂」がつく地名がたくさんあったようです。「鼠坂」というのは、「ネズミがたくさんいた坂」というわけでなく、電気がなかった時代、「月を見ること」が、数少ない娯楽のひとつだったようで、松坂屋の前身である伊藤呉服店の創業者が、この場所から「寝ずに(月を)見た」ことから、鼠坂と呼ばれたそうです。当時、建物は、せいぜい2階建てですから、さぞ、見晴らしがよかったことでしょう。

パルコで高低差を検証してみる
そして、矢場町まで南下すると、久屋大通の北向き道路も下がり始めます。
・ (23)矢場町駅- 縮小.JPG
標高図では、低地を示す緑色がパルコ東館まで迫っています。矢場町周辺は坂だらけで、大津通と久屋大通を結ぶパルコの南側の路地も坂になっています。パルコ西館と東館は1階の高さが異なり、両館を結ぶ連絡橋は、東館3階から西館2階と3階の中間につながっています。
・ (20)パルコ - 縮小.JPG
*パルコ西館は、大津通側の入り口は下り階段、東側の入り口は上り階段で高低差を埋めようと苦肉の策を取られていますが・・

名古屋台地が細くなり「象の鼻」になる
さて、矢場町から「上前津」を過ぎて、さらに南下しますと、名古屋台地の東側は、さらに低くなり、現在の山王通を境に、南側は水色になっています。
東別院周辺.JPG ・ (16)前津 - 縮小.JPG
大津通のすぐ東を前津通が並走していますが、このあたりは、前津通だけが南方向に下り坂になっていて、大津通との高低差が広がっています。前津通が山王通に突き当たるところに名古屋高速道路「東別院」降り口があります(右の画像)。

そして、東別院交差点から(厳密には下茶屋公園から)台地はさらに細くなり、金山あたりまで、大津通のすぐ東側は「絶壁」になっています。そのため、大津通の東側の建物の多くは、2階が大津通に面していて、1階は東側の崖下に面しています。東別院から金山までの様子は、名古屋史的定点観測:金山界隈で、詳しく取り上げたいと思います。
0120大津通の高低差 (1) - 縮小.JPG
ちなみに、この画像の後方(東側)の葉場公園は、鎌倉時代、船着場だったとのことです。

最後に・・
標高図を、さらに、西、南方向に広げた名古屋市全域は、こんな感じです。
DSC09014 - 縮小.JPG
長々と書きましたが、取り急ぎ「名古屋中心部は台地である」ということを言いたかった次第です。その地形さえインプットしておけば、「名古屋の歴史」への理解が深まるのではないでしょうか。

冒頭でも申しましたが、熱田神宮は、熱田台地の先端に作られ、徳川家康は、豊臣包囲網として、水害に弱い清須の町を、現在の名古屋の台地に町ごと引越しました。つまり、名古屋周辺の発展は、このような地形が、大きく影響していることは間違いなさそうです。

今回、使用した標高図は、金山総合駅南口の都市センター(ボストン美術館と隣接)に常設されていますので、興味がある方は、写メを撮られるとよろしいかと思います。

次回以降、現在の名古屋の発展に影響を与えたと思われる項目ごとにまとめてみたいと思います。


1万年前、名古屋の半分は海の中だった・・「名古屋の歴史」は地形から
http://atsutajin.seesaa.net/article/392938818.html
尾張の斯波氏が、すごい人だった件・・織田信長のルーツ
http://atsutajin.seesaa.net/article/398276964.html
名古屋史的定点観測:広小路・栄界隈
http://atsutajin.seesaa.net/article/403995218.html
名古屋史的定点観測:金山界隈
http://atsutajin.seesaa.net/article/405132992.html
名古屋史的定点観測:御器所村界隈
http://atsutajin.seesaa.net/article/411951160.html
名古屋史的定点観測:千種村(今池)
http://atsutajin.seesaa.net/article/413340912.html
信長協奏曲レビュー(1)
http://atsutajin.seesaa.net/article/407120789.html

鈴鹿市誕生の背景
http://suzuka666.seesaa.net/article/394736858.html
古代から中世の三重県北中部
http://suzuka666.seesaa.net/article/312895302.html
三重県の人が映画「清須会議」を100倍楽しむ方法
http://suzuka666.seesaa.net/article/380648772.html
藤枝と鈴鹿、ふたつの白子町
http://suzuka666.seesaa.net/article/165690072.html
第一回「白子ダービー」は激闘ドロー
http://suzuka666.seesaa.net/article/166323254.html
四日市の今昔
http://suzuka666.seesaa.net/article/409328983.html
120年前(明治23年)の鈴鹿市立若松小学校周辺
http://suzuka666.seesaa.net/article/410815634.html




posted by 熱田人 at 22:02| Comment(0) | 名古屋の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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