3000年01月01日

熱田人モードへようこそ

当初、ビジネスモードと区別する意味で、スポーツや旅行ネタを、こちらで取り上げていましたが、2014年以降、愛知県や故郷の三重県の「町の歴史」に興味が沸いています。

「それを子供の頃に知っていれば、もっと日本史が楽しかっただろうに」「もっと街に誇りを持てただろうに」と、思える情報と日々出会います。好き嫌いの問題ではなく「日本史」は、中学では必須です。各地の子供たちが、自分の町の歴史をきっかけに日本史に興味を抱き、自分の町に誇りを持てるような「伝え方」「町歴教育」を模索しています。

*モータースポーツ、故郷の三重県・鈴鹿ネタは、「名古屋発、鈴鹿便り」で。
*金融・経済・時事ネタなどは、「rokutaのつぶやき」で。
*フェイスブックで、にわか歴史ファン・郷土愛好家「熱田人三六」のページを立ち上げました。

*なぜ、三六なのか?・・織田信長の三男:信孝の幼名が三七。同じではおこがましいので、ひとつ下げて三六。三七は尾張の熱田で生まれ、信長による伊勢征伐に伴い、私の故郷三重県鈴鹿市の神戸城主に。本能寺の変で信長亡きあと、後継候補の最有力武将だったが、秀吉との争いに敗れ、知多の野間で自決。


*2013年現在、サッカーJ1J2全40チームのホームゲームは視察済み。「サッカー」を見に行くのではなく、サッカーを通して町を元気にしようと模索する、その「町」を見に行きます。資金力でカテゴリーを上げてゆくチームには関心ありません。サッカー好きでなくても、多くの人が日本代表を応援します。自分の町に、応援するチームが存在することがどれだけ幸せなことか。特に、昇格直後のオープニングゲームの観戦が好きです。また、初めてその町を訪れる人間を(現地だけでなく旅行計画の段階で)どうやって導いてくれるのか?にも、興味があります。

*理屈抜きに好きなのは、アメフトです。アメリカは、人口は日本の3倍近く、国土は日本の30倍近くありますが、そのアメリカで、何十年にも渡って50%近い視聴率を維持し、歴代テレビ視聴率上位10の内、スーパーボウルが8を占めるほど絶大な人気を誇ります。そのアメフトの面白さも伝えていければと思います。
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2017年06月17日

熱田神宮って、こんなにすごい!

正月3日間の熱田神宮の参拝客は230〜235万人と、全国の神社・仏閣の中で7〜8位にランクされています。不動のトップは、明治神宮で310〜320万人です。
*「山歩きアラカルト」さんのサイトから引用させていただきました。
http://www5e.biglobe.ne.jp/yamamosa/index.html
http://www5e.biglobe.ne.jp/yamamosa/hatumoude.htm

しかし、私は、ひそかに、数年以内に熱田神宮の参拝客が全国トップになると思っています。アクセスは抜群ですし、何より、名古屋で生まれ育った方々ですら、熱田神宮の底力を知らないように思われるからです。つまり、伸びしろが無限にあるからです。
*ただし、昨今、警察庁は、初詣参拝客の公表をしていないようです。

熱田神宮は1900年の歴史が・・
古事記、社伝などによると、1900年の歴史があります。詳しくは、別途。

熱田神宮の起源はヤマトタケル伝説
詳しくは別途。

三種の神器のひとつが熱田神宮に・・
天皇の証である三種の神器は、八咫鏡・八尺瓊勾玉・草薙剣で、鏡は伊勢神宮、勾玉は皇居、そして、剣が熱田神宮にあるとされています。鏡、剣の形代(レプリカ)は皇居にあり、2014年、天皇・皇后両陛下が伊勢神宮に参拝された際は、剣と勾玉を携行されました。詳しくは、別途。

源頼朝は熱田で生まれた
「岡崎市と名古屋市のつながりは徳川家康だけではない!」「河内源氏の栄枯盛衰」をご参照ください。

鎌倉将軍9人のうち8人に熱田神宮大宮司家の血が・・
河内源氏による鎌倉将軍は3代で途絶えましたが、その後も、頼朝の妹によって、熱田神宮大宮司家の血は引き継がれていきました。大河ドラマ「平清盛」を教材にして日本史・名古屋史を学んでみようで簡単に触れていますが、詳しくは、別途。

足利尊氏以下、すべての足利将軍に熱田神宮の血が・・
「岡崎市と名古屋市のつながりは徳川家康だけではない!」で簡単に触れていますが、足利氏については、改めてまとめたいと思います。

第89代:後深草天皇から現在の天皇陛下まで37代すべての天皇に熱田神宮大宮司家の血が・・
これも、頼朝の妹によって、熱田神宮大宮司家の血が歴代天皇に流れています。詳しくは、別途。

熱田神宮は、後醍醐天皇の武臣だった
熱田神宮は、建武の新政、南北朝時代の重要人物である後醍醐天皇から信頼される軍でした。詳しくは、別途。

織田信長が、桶狭間の戦いの前に熱田神宮に立ち寄り、戦後、信長塀を贈った理由
詳しくは、別途。

日光東照宮の創建に、源頼朝、熱田神宮が・・
詳しくは、別途。

明治以降「神宮」の第一号は熱田神宮
現在、日本国内に20以上の「神宮」がありますが、ウィキペディア「神宮」によりますと・・日本書紀で「神宮」と表記されたのは伊勢神宮、石上神宮、(出雲大神宮?)のみで、平安時代に成立した延喜式神名帳で「神宮」と表記されているのは伊勢神宮、鹿島神宮、香取神宮のみです。明治時代に入り、特に天皇家の祖神としての格式がある神社などが「神宮」号を認められることとなり、明治元年、熱田神社から熱田神宮と改められました。


取り急ぎ、項目のみ。






posted by 熱田人 at 13:30| Comment(9) | 名古屋の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月28日

河内源氏の栄枯盛衰

源氏といえば、鎌倉幕府を開いた源頼朝がもっとも有名ですが、つい最近、歴史に興味をもって、いろいろ調べ始めた結果、源頼朝が天下を取るというのは、奇跡以外の何物でもありません。

そもそも源氏とは?平氏とは?・・臣籍降下、皇籍離脱について
時代を問わず、天皇を途切らせることはできませんから、特に、天皇の権力が絶大だった時代は、多くの妻との間に多くの子女を生みました。その結果、天皇の子として生まれながら天皇になれない人が、今より相当多かったようです。そこで、明らかに天皇になれないことが確定すると、順次「姓」を与えて皇室・王室から独立させ、民間人となりました。これが臣籍降下(しんせきこうか)であり、現在の憲法下では、皇籍離脱(こうせきりだつ)と呼ぶそうです。

その代表格が源氏、平氏です。他にも、橘氏、清原氏、高階氏、在原氏など。つまり、源氏も平氏も、天皇の子孫ということです。臣籍降下して源氏になった21家は、嵯峨源氏、仁明源氏、文徳源氏、清和源氏、陽成源氏、光孝源氏、宇多源氏、醍醐源氏、村上源氏、冷泉源氏、花山源氏、三条源氏、後三条源氏、後白河源氏、順徳源氏、後嵯峨源氏、後深草源氏、亀山源氏、後二条源氏、後醍醐源氏、正親町源氏とのことで、中でも、清和天皇の子孫である清和源氏、その中の河内源氏が非常に有名です。

清和源氏と藤原摂関家
第56代清和天皇の第六皇子:貞純皇子の子:経基皇子が臣籍降下し、「源経基(つねもと)」を名乗ったことが清和源氏の始まりです。経基の長男:源満仲(みつなか)は、道長四天王のひとりです。藤原道長(966〜1028)は、西暦1000年をまたいで活躍しましたから、時代を覚えやすいかと思います。

2012年NHK大河ドラマ「平清盛」の中で、源為義(演:小日向文世)が、「わが源氏は、代々摂関家に仕えてきた」という発言が何度かありましたが、それは、道長四天王の一角となった満仲から始まったようです。

清和天皇(850〜881)→貞純親王(873〜916)→経基皇子(=源経基、生年不詳〜961)→源満仲(912〜997)→源頼信(968〜1048)→源頼義(988〜1075)→源義家(1039〜1106)→源義親(?〜1108)→源為義(1096〜1156)→源義朝(1123〜1160)→源頼朝(1147〜1199)と続きます。もちろん、途中、多くの兄弟から枝分かれしました。

中でも河内源氏とは・・
ウィキペディアによりますと・・清和源氏の武士団を摂津国川辺郡多田に最初に形成した源満仲の三男の源頼信を祖とする。頼信の長兄は摂津源氏の祖の源頼光であり、次兄は大和源氏の祖の源頼親。源頼信は、河内国古市郡壷井(現在の羽曳野市壷井)を本拠地とし香呂峰(こうろほう)の館を建て、本拠地が河内国であることから「河内源氏」と呼ばれる・・とのこと。

源頼信(968年〜1048年)
河内源氏の祖となった三男:頼信も、道長四天王に数えられることもあるようですが、1028年、かつて頼信の家人だった平忠常が反乱を起こします。1031年、これを鎮圧したのが、当時、甲斐守だった頼信、その子:頼義の親子でした。この時、頼信は64歳でした。この時点で、源氏>平氏という図式ができあがったようですが・・

源頼義(988年〜1075年)
頼信の嫡男。桓武平氏の棟梁だった平直方は、忠常の乱を平氏内で処理することができず、源氏に擦り寄ることが得策と考え、自分の娘を頼義に嫁がせます。そして、嫡男:義家を始め3人の子供が生まれます。この時点では、源氏と平氏が総力を挙げて敵対する・・という形ではなかったようです。

1051年、源氏に大きな転機が訪れます。前九年の役が勃発。このとき、頼義は64歳で陸奥守に就任します。そして、1062年、頼義75歳のとき、陸奥守の任期満了を迎えますが、陸奥の郡司たちが頼義を強く支持したため、なんと三選することに。そして、激しい攻防の末、前九年の役を鎮圧し、多大な報奨を得ることになりました。

源義家(1039年〜1106年)
河内源氏の繁栄は、まだまだ続きます。大河ドラマ「平清盛」に源義家は登場しませんが「八幡太郎義家」の名は何度も登場します。義家の曾孫:源義朝(演:玉木宏)が関東ですごした際、「曽祖父:義家の威光はすごい」と述べています。

1083年、義家44歳のとき、父:頼義の後任として陸奥守となり、後三年の役に突入します。義家は、これを鎮圧しますが、そのとき、白河天皇は、後三年の役を、個人的な戦争とみなし報奨を出しませんでした。そこで、義家は、自己の財産を関東の豪族に分け与え、このことが、関東の豪族たちの源氏への崇拝を強くした一因となったようです。

源義親(よしちか、?〜1108年)
ここまで、名門の名をほしいままにしてきた河内源氏ですが、義家の長男:義宗(よしむね)が早世すると、次男で対馬守:源義親(よしちか=頼朝の曽祖父)に家督が移るのですが、こともあろうに、この義親が、西国で大暴れしてしまいます。1101年7月7日、義親は、鎮西に於いて大江匡房に告発され、朝廷は義家に義親召還の命を下すのですが、義家が派遣した首藤資通は、翌1102年2月20日、義親と共に義親召問の官吏を殺害。12月28日、朝廷は義親の隠岐配流と資通の投獄を決定するものの、義親は配所には赴かず、逆に、出雲で目代を殺害し官物を強奪。朝廷は、父:義家に追討を命じますが、1106年、義家の四男:義国(足利氏の祖)が、叔父で義家の弟:源義光等と常陸合戦に突入、そんな中、義家は、68歳で亡くなってしまいます。義家の3男:源義忠が家督を継承し、河内源氏の棟梁になるのですが、翌1107年12月19日、隠岐に配流されていた源義親が、今度は、出雲国目代を殺害、ついに、白河法皇は、平正盛(清盛の祖父)に義親の追討を命じました。そして、大河ドラマ「平清盛」で、翌1108年1月29日、平正盛は義親の首を持って京に凱旋します。

ちなみに、常陸合戦を起こした義国は、足利を開墾し、後に、その長男:義重は新田氏の祖となり新田義重と称し、次男:義康は足利氏の祖となり足利義康と称しました。

源義忠→為義→義朝へ・・
義親の弟:義忠が家督を継ぐのですが、義忠は、平正盛の娘を正室に迎えており、平忠盛(=清盛の父)の元服の際には烏帽子親を務め、義忠の「忠」を忠盛に与えるなど、平氏との融和を図っていました。しかし、この義忠も、1109年、叔父(義家の弟)の義光に暗殺されてしまい、源氏長者の座は、消去法で、義親の嫡男である為義に戻ってきました。源氏自ら、これ以上堕ちる余地がない所まで堕ちてしまい、新たに支配層となっていた院としては、摂関家と親しかった源氏を避け、相対的に、平氏の時代が訪れました。

河内源氏の復活・再生と熱田神宮
源為義の嫡男:源義朝は、熱田神宮大宮司:藤原季範の娘:由良御前を正室に迎えます。その前後については、今のところ、「岡崎市と名古屋市のつながりは徳川家康だけではない!・・瀧山寺と熱田神宮」で触れていますので、ご参照ください。

天国から地獄へ・・
1156年、保元の乱では、義朝だけが後白河天皇側につき、父:為義を始め、義朝以外のすべての兄弟は崇徳上皇側につきました。後白河天皇側が勝利し、義朝は、父の処刑を命じられました。

しかし、1160年、平治の乱では、義朝は、クーデター側の中心武力となり、平氏と戦い、完敗しました。敗走中、知多半島の野間で、長田忠致に裏切られ自決。12歳の頼朝は、当然、斬首が予想されたものの、伊豆への流罪に決定しました。

その後、平清盛の世に突き進むのですが、1177年、鹿ケ谷の陰謀も、密告によって事前に失敗。平家の独裁をさらに加速させる結果となりました。

この頃の歴史を知れば知るほど、後に、頼朝が鎌倉幕府を開くなど、奇跡以外の何物でもありません。

源頼朝の生涯を考えてみる
源頼朝は、熱田で生まれ、物心がついた頃には、父:義朝は常盤御前にうつつをぬかし母子家庭。最愛の母は、頼朝が満11歳のとき病死。その8か月後、平治の乱で父も死去。すでに、保元の乱で祖父・親戚を失っており、満12歳で孤児となり、伊豆に流罪となります。平氏討伐の以仁王の勅令を受け取り挙兵するまで20年間、伊豆で隠居生活を送りました。「20年」というのは、後で確定したことであり、伊豆での日々は「余生」のようなものだったことでしょう。のち、鎌倉幕府を開いたあと、上洛のたびに熱田に立ち寄ったかどうか知りませんが、頼朝の生い立ちを考えると、熱田への想いは相当なものだったのではないかと推測します。

源氏による鎌倉幕府は3代で終わる
日本の支配層は、藤原摂関家→皇室・院政→平家と移り、源頼朝が鎌倉幕府を開きますが、武家政権は、まだまだ脆弱で、頼朝を含め、その子:頼家、実朝の3人で、河内源氏による鎌倉将軍は途絶えてしまいます。

どれだけ衰退しても、源氏長者(=源氏の最高権力者)というのは、誰かがなったのですが、南北朝の時代には、村上源氏の北畠親房が源氏長者となったこともあったようです。

足利氏も、熱田神宮の血が・・
源義国の四男:義康が足利氏の祖となった・・と述べましたが、源義康も、熱田神宮から正室を迎えています。大宮司:藤原季範の孫娘を養子に入れたうえで婚姻に至ったようです。足利氏については、また、改めてまとめたいと思います。



posted by 熱田人 at 15:29| Comment(0) | その他の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月26日

大河ドラマ「平清盛」を教材にして日本史・名古屋史を学んでみよう

2012年NHK大河ドラマ「平清盛」は、空前の低視聴率が話題になりました。当時、私は、歴史に関心がなく、大河ドラマを録画するという習慣もありませんでしたから「無」の状態でした。
43 (1).JPG ・平清盛.JPG

しかし、その後、源頼朝が熱田生まれであることや、中区の闇の森八幡が源為朝の勧請によるものであることを知り、なぜ、源氏と熱田神宮がつながったのか? その経緯を調べるうちに、熱田神宮が藤原南家とつながったことがわかり、さらに、その時代背景に興味をいだき、かなり習得しました。そして、ドラマの中で、それらが、どのように描かれていたのか? ということで、ついに2017年1月、レンタルDVDを見つけ、一気に鑑賞しました。

結果、今までの大河ドラマとは別格・別次元の面白さで、未だに余韻に浸っている日々です。

まず、3人の狂人。白河法皇、鳥羽法皇、後白河法皇。
白河.JPG ・鳥羽法皇.JPG ・後白河 (3).JPG 
白河法皇(演:伊東四朗)は第2回で早くも崩御するのですが、死後も、その遺伝子が、ドラマを泥々にして、最後まで、大きな存在感を示します。鳥羽法皇(演:三上博史)は第20回の冒頭で崩御し、保元の乱に突入するきっかけとなります。後半は、平清盛(演:松山ケンイチ)と後白河法皇(演:松田翔太)の駆け引きが、ドラマの軸になっています。
・清盛vs後白河.JPG

栄華を極めた藤原摂関家が衰退し、それまで抑圧されてきた王家(天皇家)・院政に権力が移り、摂関家の娘ではない女性が「帝の母」の座を巡り、争います。
璋子(待賢門院.JPG 得子.JPG 
左:たまこ=待賢門院(演:檀れい)、右:なりこ=美福門院(演:松雪泰子)

さらに、平氏・源氏という武家の社会に移行する、激動の時代が描かれており・・
・清盛vs義朝.JPG

序盤、存在感を示したのは、清盛の父:平忠盛(中井貴一)でした。第16回で亡くなりますが、あまりにも格好よく、残り3分の2、ドラマは成立するのか? という心配すら起こりました。
・忠盛.JPG
ちなみに、清盛、忠盛は桓武平氏の中で、特に三重県を基盤とした伊勢平氏です。津市に「忠盛塚」というバス停もあります。

また、それぞれ定説を逸脱しない範囲で、どろどろの愛憎劇が絡み合い、最高のドラマとして成立しています。

低視聴率の原因を想像してみる
まず、登場人物が多すぎる。特に、平氏は、男子の親族だけで20人。清盛の兄弟なのか?子息なのか?さらに孫なのか? それぞれ、子役→少年期→成人と役者が変わるし、最近、ドラマを見ていないと役者も知らないし、わからなくなってきます。そこで、以下のような演者リストを作って、DVDを止めながら、その人物を確認しながら鑑賞しました。
演者リスト.JPG
ご希望の方にはお譲りしますので、フェイスブック「熱田人三六」ページで検索してお申し付けいただければ幸いです。

また、2012年当時の私のように基本的な知識がゼロだと、受け身になってしまってストーリーを追いかけるのに疲れるのではないかと思います。それらが、低視聴率の原因ではないかと思います。そこで、「平清盛」を楽しむために、ドラマでは描かれない部分も含めて、私なりの見どころをまとめてみました。

いつものことですが、まとまるのを待っていたら永遠にUPできませんので、取り急ぎUPし、随時、加筆・訂正したいと思います。


藤原摂関家の栄枯盛衰を予習してみる
ドラマを見る前に、まず、藤原摂関家について予習してみましょう。藤原氏のスタートは、大化の改新(645年)の中臣鎌足です。鎌足が亡くなる前日、天智天皇から藤原姓を賜り、鎌足の子:不比等から、藤原姓を名乗りました。

藤原不比等は、4人の子供と力を合わせ、天智天皇の下、政治改革に取り組みます。同時に「自分の娘を天皇に嫁がせ、男子を生んで、その子が天皇となる」つまり「自らが天皇の祖父になる」ことにより、権勢をふるいました。ちなみに、このスキームは、大化の改新の前、蘇我氏が、すでに確立させていました。

不比等なき後、不比等の長男:武智麻呂(南家)の次男:仲麻呂(恵美押勝)が「仲麻呂の乱(764年)」を起こし斬首されると、北家に権力が移ります。

そして、866年、藤原不比等の孫の曾孫にあたる北家:藤原良房が、応天門の変で大納言:伴善男を失脚させ、皇族以外で初めて摂政となり、さらに、良房亡き後、その養子の基経が関白に就任し、基経の子:時平・忠平の兄弟に引き継がれます。藤原時平は、菅原道真との確執で有名です。その後、摂関家は、忠平の次男:師輔の子孫に引き継がれていきました。

そして、師輔の三男:藤原兼家、兼家の五男:道長の代になると、親子2代で5人もの天皇の外祖父になり、摂関家の権勢がピークを迎えます。しかし、兼家、道長で運を使い果たした反動は、道長の子の代に押し寄せ、道長の長男:頼通、権力争いした五男:教通も、それぞれ82歳、76歳という長寿にもかかわらず、特に、頼通は50年も関白を続けて政治的には安定していたものの天皇の外祖父になることができず、摂関家の権勢は、徐々に衰退して行きます。そして・・

1068年、藤原摂関家を祖父としない後三条天皇が即位。
1073年、白河天皇が20歳で即位。翌1074年から1075年にかけて、藤原頼通、教通が相次いで亡くなると、藤原摂関家の権勢は消え失せ「院政」の時代に向けて動き始めます。

1117年12月13日、白河法皇の養女:藤原璋子(たまこ、後の待賢門院:たいけんもんいん、演:檀れい)が入内し、大河ドラマ「平清盛」は、このあたりから始まります。この頃、白河法皇(演:伊東四朗)は64歳になっています。

藤原忠通vs頼長
藤原道長以降、摂関家に大きなミスがあったわけではありませんが、藤原氏の影響を受けない白河法皇の権勢が強すぎて、相対的に藤原摂関家は力を失っていました。ドラマの序盤では、藤原道長の孫の孫にあたる忠実(ただざね、演:國村隼)は39歳。長男の忠通(ただみち、演:堀部亮)は20歳、次男:頼長(よりなが、演:山本耕史)は、まだ生まれていません。
・藤原忠実.JPG ・藤原忠通.JPG ・藤原頼長 (1).JPG
放送時、兄:忠通を演じた堀部圭亮さんは46歳、弟:頼長を演じた山本耕史さんは35歳でしたが、本当の忠通と頼長は、実は23歳も離れていました。その後、忠実は、藤氏長者(藤原氏の最高権力者)を忠通に譲り、忠通は、25歳で鳥羽天皇の関白に就任します。しかし、なかなか男子に恵まれなかったため、29歳のとき、当時6歳だった弟:頼長と養子縁組を行い、摂関家をつなげてゆこうとしていました。

しかし、1143年、忠通46歳のとき、ついに長男:基実(もとざね、演:村杉蝉之介)が誕生、さらに、翌1144年、次男:基房(もとふさ、演:細川茂樹)が誕生。その後も、堰を切ったように男子が生まれ、ついに、1149年、六男:兼実(ドラマの設定は三男、かねざね、演:相島一之)が誕生します。
・藤原基実.JPG ・藤原基房.JPG ・藤原兼実.JPG
こうなると、忠通は自分の子孫に摂関家を継がせたいと思うようになり、頼長と骨肉の争いに突入します。そして、第15回、近衛天皇が元服すると、頼長は、養女・多子(まさるこ?)を入内させ、片や忠通も、藤原伊通の娘・呈子(しめこ)を養女にして入内させるなど、摂関家の兄弟で、近衛天皇の世継ぎ争いに突入します。ちなみに、第15回、後の常盤御前(演:武井咲)が、京の町で公家に連れ去られそうになるシーンがありますが、これは、呈子(しめこ)の入内に伴い、京の町中から美人を集めていたのです。

藤原忠実は、頼長を贔屓したのか?
父:忠実は、頼長の政治運営能力を評価したのか?なぜか、頼長をひいきし、第16話の冒頭、1150年、源為義(演:小日向文世)に命じ、忠通(当時53歳)の正邸・東三条殿を襲わせ、藤氏長者の証である「朱器台盤」を接収し、忠通から藤氏長者の地位を剥奪して頼長(当時30歳)に与え、忠通と義絶してしまいます。そして、同じ第16回、頼長は内覧となり、忠通と同格まで昇進しました。
・朱器台盤.JPG
その結果、摂関家内の権力は、急速に頼長に移り、石田三成を彷彿させるような政治手腕を発揮します。(ちなみに、頼長を演じた山本耕史さんは、2016年大河ドラマ「真田丸」で石田三成を演じました) ただ、あまりにも真っすぐな性格のため、周囲の反感を招き、石田三成のように、だんだん孤立してゆきます。

ドラマでは、父:忠実が長男:忠通に対して、「好きか嫌いか?」といえば嫌いだったとしても、藤氏長者の座を強引に奪い取るほど忠通を嫌っていたか?頼長を好んでいたか?というと、そこまで描写されていなかったような気がします。むしろ、第18回で、忠実が頼長の政治手法に「やりすぎ」と苦言を呈したのに対し、頼長が「私のまつりごとを解さぬ愚人に貸す耳はない。今度口出ししたら、父上といえども許さない」とのやり取りや、第22回、頼長が保元の乱で瀕死の状態で忠実を頼ってきた際、面会すら応じなかったことを考えると、むしろ、一貫して忠通を好んでいたような印象すらあります。ちょっともやもやした部分です。

そんなこんなの状況の中、第18回、忠通の養女:呈子(しめこ)は近衛天皇の子を出産できずに内裏に戻り、結局、近衛天皇は、皇子がいないまま17歳で崩御。後継には、崇徳上皇の第一皇子:重仁親王が有力でしたが、まさかの後白河天皇(演:松田翔太)が誕生します。崇徳上皇にとって、天皇が弟では、院政を敷くことができません・・

保元の乱へ
そして、第19回、近衛天皇の崩御からちょうど1年後、鳥羽法皇も崩御し、皇室は、新天皇の後白河天皇vs不遇だった崇徳上皇、摂関家は、忠通vs頼長の陣営に分かれ、平氏、源氏の武家が、それぞれの陣営につき、鳥羽法皇崩御から、わずか一週間後、保元の乱に突入します。その糸を手繰っていたのは、信西でした。
信西.JPG

保元の乱後の摂関家
保元の乱の首謀者となった藤原頼長(演:山本耕史)が敗死となり、第23回、忠通は、清盛に対して、これまでと態度を一変、恭順の意を表明、第30回、忠通は、清盛に、嫡男:基実(演:村杉蝉之介)を清盛の娘婿にしてほしいと申し入れて、この世を去り、基実が摂関家の長に就きます。基実の正室は、清盛の娘:盛子ですから、当然、平氏寄りの立場を明確にします。第32回、しかし、その基実が23歳で早世すると、基実の嫡男:基通は(↓画像)、まだ幼かったため、藤氏長者は、忠通の次男:基房(演:細川茂樹)に移ります。
・藤原基通.JPG

しかし、第44回、1179年、基房の子:師家が8歳で権中納言に任ぜられ、基房は自らの子孫に権力を引き継がせようとします。しかし、ドラマでは、その数分後、平清盛が、平家に批判的な公家を排除し(=治承3年の政変)、基実の嫡男:基通(19歳)を内大臣・内覧・関白に任じ、翌年2月には安徳天皇の摂政とします。

ドラマでは触れられませんが、本来、治承3年の政変で、兼実(演:相島一之)も、長兄:基房(演:細川茂樹)と同様、流罪に処せられるかと思いきや、未熟な基通の補佐役として引き留められます。そして、源氏によって平家が滅ぶと、平家とのつながりが深かった基通から、再び、権力は兼実に移ります。終盤、ドラマでは、兼実はあまり登場しませんが、実は、権力者となった源頼朝は、平家の色の濃い基通を避けるための受け皿として兼実を重用し、兼実の日記「玉葉」にも、兼実と頼朝のやり取りが鮮明に残っているようです。さらに、後白河法皇の崩御後、源頼朝の征夷大将軍の宣下も兼実が行ったようです。

兼実は、ドラマの終盤、「前例がない!」という言葉を連発し、悪しき前例主義の役人のように描かれていますが、ウィキペディアによりますと、兼実は、有職故実の生き字引と言ってもいいくらい教養を身につけており、溢れんばかりの知識があったからこそ「前例がない!」だったようです。

ドラマは、清盛が主人公ですから、摂関家については触れられないまま、この時期で終わります。しかし、この後、熱田神宮の血筋が、摂関家と深く関わってきます。

ドラマ後の摂関家には熱田神宮の血縁が・・
日本の支配構造は、摂関家→院政→武家と移り変わり、摂関家の存在感が薄まる一方のまま、ドラマは終わりますが、ドラマの後、日本史的には、九条兼実(かねざね、演:相島一之)が摂関家の中で権力を握ります。

しかし、1188年、兼実の嫡男:良通は22歳で早世し、後を継いだ次男:良経も、1206年、38歳で亡くなってしまいます。良経は、百人一首で「きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに・・」を歌った人です。ただし、百人一首では「後京極摂政前太政大臣」という名前です。

長男にも次男にも先立たれてしまった兼実は、良経の長男(兼実の孫)である道家に、自分の知識を教えてゆこうと全力を尽くしたようです。実は、この過程で、熱田神宮の血が、大きく関わっています。九条良経の正室:坊門姫は、源頼朝の同母妹、つまり、源義朝と熱田神宮大宮司の娘:由良御前との間に生まれました。坊門姫は一条能保に嫁ぎ、その娘(=頼朝の姪)が、兼実の次男:九条良経に嫁いだのです。次男の嫁なので、嫁いだ時点では気楽だったかも知れませんが、1188年、良経の兄:良通が22歳で早世したことにより、弟の良経に藤氏長者の責任が回ってきます。ここに、熱田神宮の血が藤氏長者に流れることになります。時期的には、源頼朝が鎌倉幕府を開いた頃です。頼朝は幼くして親族を失っていますので、妹の坊門姫の血縁者には、さぞ思い入れが深かったことでしょう。しかし、その良経も38歳で亡くなってしまい(坊門姫は、その前に亡くなっている)、兼実は、孫、つまり良経の嫡男:道家の育成に全力を注ぎます。

この九条道家が、いろいろな縁から、摂関家の権勢を奪回することになります。実は、坊門姫には、もうひとり娘がいまして、西園寺公経(さいおんじきんつね)に嫁いでおり、その娘が、九条道家と結婚したのです。つまり、九条道家とその妻は、共に坊門姫(頼朝の妹、義朝の娘)を祖母にもつ、いとこ同士ということです。この西園寺公経が、1221年、承久の変で大手柄を挙げたことにより、娘婿の九条道家は、さらに立場が有利となり、道家夫婦から生まれた藤原頼経が、河内源氏の血が濃く流れているということで、鎌倉幕府3代将軍:源実朝なき後、4代目の鎌倉将軍に就任するのです。

ちなみに、兼実の姉:聖子(=皇嘉門院=忠通の長女=崇徳上皇の妻)は、兼実、さらに兼実の嫡男:良通を自らの養子にしていたため、崇徳院の財産が、崇徳→皇嘉門院→良通→良経→道家と引き継がれ、後々、九条家の強力な資産になったようです。
・藤原聖子.JPG

なばなの里は、九条家の領地だった?
現在、三重県桑名市の近鉄伊勢長島駅の南、なばなの里の北(長島中学)に、長島城跡があります。この場所は、長島一向一揆の拠点:願証寺があった場所でもあり、その後、織田信長の家臣:滝川一益の拠点にもなった場所でもあるのですが、もっとも古くは、鎌倉時代、ここに九条道家が館を建て、晩年を過ごしたとの記録があるようです。長島周辺が、九条家の荘園だったのでしょうか。

他にも、このルートは、日本史に相当存在感を示しますが、詳しくは、「熱田神宮ってすごい!」にまとめたいと思います。


「藤原さん」は、いずこに?
そういえば、藤原氏の最高権力者(藤氏長者)といえば、「近衛さん」「九条さん」ばかりで、いつの間にか、「藤原さん」がいません。それって、どういうことでしょうか? 

ドラマ後半で、藤原忠通の3人の子が登場し、それぞれ藤原基実(もとざね、演:村杉蝉之介)、藤原基房(もとふさ、演:細川茂樹)、藤原兼実(かねざね、演:相島一之)という設定ですが、ウィキペディアでは、それぞれ近衛基実、松殿基房、九条兼実で紹介されます。ドラマでは、そのことに触れられませんが、実は、ちょうど、このドラマの舞台となった時代、藤原忠通を最後に、藤氏長者(=藤原氏の最高権力者)から「藤原さん」はいなくなるのです。


細かすぎて見落としてしまう名古屋つながり・・藤原師長
名古屋市瑞穂区に「師長町」「妙音通」、また、名古屋の西部に「枇杷島」という地名があります。これは、藤原師長(もろなが)という人にまつわる地名です。藤原師長とは、保元の乱の張本人である藤原頼長(演:山本耕史)の長男なのですが、第22回、保元の乱で頼長が死んだ後、信西(演:阿倍サダヲ)が頼長の遺品を整理していた時、頼長の日記が出てきて回想シーンに入ります。頼長が自分の子に説諭しているシーンですが、その際の長男が師長です。
・藤原頼長の子 (2).JPG ・藤原頼長の子 (1).JPG 
ドラマでは触れられませんが、保元の乱の戦後処理で、頼長の子供たちも配流とされ、師長の弟たちは、全員、配流先で生涯を終えます。ちなみに、この時、師長の配流先は尾張ではありません。

実は、その後も、ドラマに「師長」の名前が登場します。この配流から許された師長は、よほど後白河法皇に気に入られたのか?異例の出世を遂げ、なんと、九条兼実を飛び越えて、太政大臣にまで昇進していました。しかし、第44回、平清盛が、平家に批判的な公家を排除しましたが(治承三年の政変)、その際の処分リストに「太政大臣:藤原師長」の名がありました。
治承3年.JPG
この2回目の配流先が、現在の瑞穂区井戸田です。ここでは省略しますが、琵琶の名手:藤原師長は、尾張で、いろいろな逸話を残してくれました。ちなみに、師長の戒名は「妙音院」です。

「なごや」の地名の初見とドラマ出演者
余談だらけで恐縮ですが・・国立国会図書館のHPによりますと、「なごや」の歴史上の初見は、旧広橋家本「江家次第」裏書(東洋文庫蔵)にある「建春門院法花堂領尾張国那古野庄領家職相伝系図」だそうです。平安時代末期の健春門院(演:成海璃子)所領の荘園名として登場します。

また、健春門院の所領になった経緯について、名古屋市博物館企画展「熱田と名古屋」の資料によると、「那古野荘」について・・「最初、白河院の近臣:葉室顕隆(はむろあきたか)の孫:東大寺別当:顕恵が荘園開発。その後、後白河上皇の女御:健春門院に寄進」と書かれています。

さて、大河ドラマ「平清盛」の終盤、平治の乱の首謀者のひとり藤原惟方(これかた、演:野間口徹)が登場しますが、実は、藤原惟方も、葉室顕隆の孫であり、「なごや」を荘園開拓した東大寺別当の顕恵の異母兄にあたります。

藤原経宗さんのキャラが濃すぎて、記憶に残りづらいですが・・
・藤原経宗ら.JPG ・藤原惟方 (2).JPG

また、惟方の同母妹の祐子は、平時信(演:蛭子能収)に嫁いでおり、時子(演:深田恭子)、時忠(演:森田剛)、滋子=健春門院(演:成海璃子)を生んでいます。
・時子.JPG ・平時忠 (2).JPG ・滋子(健春門院.JPG
ですから、惟方にとって、時子、時忠、滋子(健春門院)は、甥・姪ということになります。平治の乱を引き起こしたものの、清盛の大逆転に貢献した惟方と平氏の関係は、ドラマでは触れられませんでしたが、かなり濃いものだったようです。

また、「顕恵が(那古野荘)を健春門院に寄進」というのは、「おじから姪への寄進」ということになります。身内から国母が生まれるとは思いもよらず、一族として、たいへん誇らしかったことでしょう。

さらに、惟方の同母妹の頼子は、前項の藤原師長の正室ですから、「なごや」とのつながりが豊富な兄弟姉妹ということになります。

藤原惟方が信西を恨んだ理由
ちなみに、藤原惟方の祖母は、三河国司:藤原季綱の娘:悦子ですから、熱田神宮大宮司:藤原季範(すえのり、演:山口良一)といとこ同士であり、惟方の父:葉室顕頼と信西はいとこ同士になります。

親戚だから仲がよかったか?と言いますと、そうでもなく、ウィキペディア「信西」によりますと・・「鳥羽法皇の政治顧問だった葉室顕頼が死去すると、顕頼の子(=惟方ら)が若年だったことからその地位を奪取することに成功・・」とのこと。ですから、惟方が平治の乱を引き起こした動機として、ドラマで描写されている流れ以外に、信西を相当恨んでいたことが推測されます。


河内源氏の栄枯盛衰
ドラマの中で、源為義(演:小日向文世)が、「わが源氏は、代々摂関家に仕えてきた」という発言が何度かありました。
源為義.JPG ・源義朝2.JPG
また、源氏の衰退が、源為義(演:小日向文世)の資質によるもの・・と描かれていますが、河内源氏の歴史を見ると、為義の資質で片づけてしまうのは、酷な気がします。そんな河内源氏の栄枯盛衰については、「河内源氏の栄枯盛衰」に、まとめましたので、ご参照ください。ドラマをより楽しめるよう、源氏について予習してみましょう。

清和天皇の貞純皇子の子:経基王が臣籍降下して源経基となり、その子:源満仲が道長四天王と呼ばれるほど、重要な役割を果たしました。その子孫は、平忠常の乱、前九年の役、後三年の役などを鎮圧して朝廷の信頼を築き上げてきたのですが、源義家の長男:義宗(よしむね)が早世すると、次男で対馬守:源義親(よしちか=頼朝の曽祖父)に家督が移るのですが、こともあろうに、この義親が、西国で大暴れしてしまいます。1101年7月7日、義親は、鎮西に於いて大江匡房に告発され、朝廷は義家に義親召還の命を下すのですが、義家が派遣した首藤資通は、翌1102年2月20日、義親と共に義親召問の官吏を殺害。12月28日、朝廷は義親の隠岐配流と資通の投獄を決定するものの、義親は配所には赴かず、逆に、出雲で目代を殺害し官物を強奪。朝廷は、父:義家に追討を命じますが、1106年、義家の別の息子:義国(足利氏の祖)が、叔父で義家の弟:源義光等と常陸合戦に突入、そんな中、義家は、68歳で亡くなってしまいます。義家の3男:源義忠が家督を継承し、河内源氏の棟梁になるのですが、翌1107年12月19日、隠岐に配流されていた源義親が、今度は、出雲国目代を殺害、ついに、白河法皇は、平正盛に義親の追討を命じました。翌1108年1月29日、平正盛(演:中村敦夫)は義親の首を持って京に凱旋・・

さらに、義親の弟:義忠が家督を継ぐのですが、1109年、義忠も、叔父(義家の弟)の義光に暗殺されてしまい、源氏長者の座は、消去法で、義親の嫡男である為義に戻ってきていました。源氏は、これ以上堕ちる余地がない所まで堕ちてしまい、相対的に、平氏の時代が訪れていました。大河ドラマ「平清盛」は、そのような時代背景から始まっています。

第4回の放送で、平氏が昇進を続ける反面、源氏一門が冷遇される中、源為義(演:小日向文世)が、「忠盛め。24年前、(義親が)狼藉を働いて正盛に討たれた。今さらどうあがいても無駄だ。」と発言。平正盛(演:中村敦夫)が源義親の首を持って京に凱旋するシーンが、数秒間流れます。

河内源氏と熱田神宮との関係
源頼朝が名古屋の熱田で生まれたことを知り、なぜ、熱田神宮が河内源氏と結びついたのか?という疑問が生まれました。少し掘り下げて調べてみると、熱田神宮大宮司は、代々、尾張氏が勤めてきたのですが、ある時期、藤原氏に移りました。そして、現在の岡崎市を含む額田郡を開墾した藤原季兼にたどり着きました。当時、中央政界は藤原北家に牛耳られていましたが、まだまだ、全国各地は未開の土地だらけであり、それを開墾した者が、自分の所領として認められる・・それを朝廷などに寄進することによって立場を高めて行く・・という図式がありました。そして、熱田神宮は藤原南家とつながり、皇室とつながり、やがて、河内源氏とつながります。この過程を知ると、ドラマ「平清盛」が非常に楽しめます。詳しくは、岡崎市と名古屋市のつながりは徳川家康だけではない!を、ご参照いただければ幸いです。


熱田にとって最重要人物=統子内親王(=上西門院)
統子内親王(むねこないしんのう、演:愛原実花)は、鳥羽天皇(演:三上博史)の第二皇女であり、母は待賢門院(演:檀れい)です。ドラマには出てきませんが、由良御前のふたりの姉も、統子内親王(上西門院)、その母:待賢門院に仕えており、すでに、パイプは太かったようです。
・上西門院統子.JPG ・由良、統子.JPG
統子内親王のドラマでの初見は第16回。保元の乱が近づき、宮中が慌ただしくなってきている中、統子内親王と由良御前が話すシーンで、「源氏内部の確執を鎮めるのは由良の役目」と諭します。

そして、第25回(1159年)、統子内親王が院号宣下し上西門院となりますが、熱田神宮と皇室との分厚い関係を背景に、由良御前の子:頼朝も、11歳で上西門院の蔵人に就任し、殿上始め(てんじょうはじめ)の儀で、清盛の盃に注ぐシーンがあります。しかし、頼朝の晴れ舞台となった殿上始めの儀から、わずか10日後、最愛の母:由良御前は病気で亡くなり、さらにその8か月後、父:義朝も、平治の乱で命を落とします。

そして、上西門院は、第26回、平治の乱で、後白河上皇と供に幽閉されるシーン、第29回、後白河上皇と婚約した滋子に巻き髪を注意するシーンなど、地味ながら、結構、多く登場します。

ドラマには出てきませんが・・熱田神宮:藤原範忠という人
ちなみに、熱田神宮では、1137年、大宮司が、藤原季範(演:山口良一)から長男・・ではなく、五男:範雅に移りました。季範と長男:範忠との関係は、あまり良好ではなかったのかも知れません。
*下の画像は、藤原季範(演:山口良一)のものです。
藤原季範.JPG
保元の乱の前年1155年、藤原季範は亡くなったのですが、それと同時に、大宮司は、藤原範雅から季範の長男:範忠に変わったのです。父の死を機に、大宮司の座を弟から奪い取った・・かのような状況を思い浮かべてしまいます。1156年、保元の乱には、熱田神宮から義朝に援軍を出したという記録があるようですが、その時点では、大宮司は、季範の長男:範忠ということになります。その背景など、引き続き、調べたいと思います。

藤原範忠に関する記録としては・・1153年、源義朝が従五位下に叙された際、藤原範忠も一緒に叙されたとされています。また、第30回(1162年)、二条天皇を呪詛した疑いで、平時忠(演:森田剛)が流罪となりますが、実は、この時、藤原範忠も一緒に流罪となっており、大宮司職を解かれているのです。

ちなみに、範忠の流罪に伴い、大宮司職は、再び範雅の手に渡るのですが、1170年頃、流罪から許された範忠が、再度、大宮司に復帰、しかし、1178年、今度は、平時子の命令で、大宮司は範忠の孫の忠兼に移され、1181年、範雅が三度返り咲く・・という二転三転を演じたようです。それは、熱田神宮が中央政権と比較的近い位置にあり、大宮司職が、その影響を受けた証といえるでしょう。

源頼朝は、なぜ、助命されたのか?
平治の乱のあと、頼朝も斬首が当然視されるところですが、結果的に、頼朝の命は救われ、伊豆に流罪となりました。その頼朝の助命に関して、第28回、清盛の継母:池禅尼(演:和久井映見)が頼朝と面会し、その後、清盛に「頼朝が(亡くなった)家盛に似ているから・・」との理由で助命を懇願。定説も、これが主流なのかもしれません。しかし、平氏の存続が使命であるはずの池禅尼が、それを阻む因子の助命を乞うというのは、不自然な気がします。
・池禅尼.JPG
ドラマでは触れられませんでしたが、上記のように上西門院を始めとした皇室関係から、そういった圧力があったことは容易に推測できると思います。そもそも、常盤御前、義経も生き延びたわけですし、誰かの助命懇願がなくても、清盛は、頼朝を生かしたのか?あれこれ思いを巡らせるのも楽しいものです。


私が「北面武士」に関心を持った理由
ドラマの序盤、平清盛や源義朝が、北面武士に入ることができるか否か・・が取り沙汰されますが、第4回の冒頭で「北面武士」について、「上皇にお仕えし、その警護にあたる男たち。良家の子息にして、文武両道かつ容姿端麗な武士(もののふ)の華」と解説されます。

実は、私、「北面武士」に非常に関心がありました。というのは、なぜ、由良御前(演:田中麗奈)が源義朝(演:玉木宏)が結ばれたのか?という疑問の中で、由良御前の父である熱田神宮大宮司:藤原季範(すえのり、演:山口良一)の正室が、河内源氏:源行遠(ゆきとお?)の娘であることがわかり、その源行遠を調べると、初代の北面武士だった・・ということがわかったからです。つまり、由良御前で、いきなり熱田神宮と河内源氏がつながったわけではなく、その父の代で、すでに、熱田神宮と河内源氏はつながっており、自然な成り行きであることがわかったのです。ただし、由良御前の生母が行遠の娘だったか否かは不明のようです。

いずれにせよ、北面武士は、武士の中でも選りすぐりのエリートだったようで、源行遠は、白河上皇の信頼を得ていたことになります。その娘を正室に迎えた藤原季範も、皇室とそれなりの距離感にあったことでしょう。ちなみに、源行遠が北面武士だったとき、平正盛(清盛の祖父)も、その同士だったようです。

八条院(演:佐藤仁美)
ドラマの終盤、以仁王(もちひとおう)の養母として登場し、平氏追討の旗頭となって大きな存在感を示しましたが、実は、ドラマの序盤、待賢門院(演:檀れい)と美福門院(演:松雪泰子)の権力争いの中、子宝に恵まれた待賢門院に対して、美福門院(演:松雪泰子)は男子に恵まれず、第7回など、鳥羽天皇との間に子を授かったものの女子だった・・というシーンがありましたが、あのときの女子が、後の八条院です。
・八条院.JPG ・以仁王.JPG
なぜ、私が、この八条院に興味があるかと言いますと・・これまたドラマとはまったく関係ないのですが、彼女は、近衛天皇の後継天皇の候補にあがるくらい、鳥羽法皇に可愛がられた上、美福門院の莫大な遺産が彼女に流れ、後に、大覚寺統の主要財源になったとのこと。南北朝時代、大覚寺統といえば後醍醐天皇。大須観音や熱田神宮と非常に深い関係があった後醍醐天皇が、どうやって尾張と関りができたのか? そのためにも、八条院のことも、さらに調べたいと思います。

源行家(演:江良潤)も名古屋金山にゆかり・・
ドラマがクライマックスに向かう終盤、第45回、源行家が八条院、以仁王の前に現れ、以仁王が平氏討伐の令旨を書き上げます。そして、第46回の冒頭、伊豆に流罪中の頼朝にも令旨が届き、ドラマは、大きく動きます。
・源行家.JPG ・頼朝令旨.JPG
実は、源行家は、保元の乱のあと、熊野に潜伏してきましたが、この時、行家が山伏に扮して以仁王の令旨を全国の源氏残党に伝えたと言われています。当然、伊豆の頼朝に届けたのも、行家ということでしょう。

ドラマの中での行家の登場はこれだけですが、第47回、富士川の戦いで、平家は、水鳥の音に驚き、戦わずして逃げてしまうシーンがありました。その後、ドラマでは省略されますが、墨俣川(長良川)では、平家が攻勢に転じ、源氏は敗走、熱田まで逃げ延び、現在の金山の南方に砦を築いたと言われています。実は、このとき、源氏の大将が源行家でした。その熱田村砦も打ち破られ、足助まで追い詰められましたが、そこに、東から頼朝の大軍が近づいているとの噂が流れ、平氏も、いったん撤収しました。つまり、源行家は、熱田、金山に非常にかかわりが強い人物なのです。

源為朝(演:橋本さとし)も金山・尾頭にゆかり
源為義の八男:為朝は、現在、五月人形のモデルになるほど、豪傑だったようです。
・源為朝 (2).JPG ・源為朝 (1).JPG
ドラマでは、第18回で初登場しますが、保元の乱の前に、為朝が崇徳上皇側につくという情報が流れ、平氏一門の軍議は重苦しい空気に包まれているシーンがあります。保元の乱は「保元物語」に詳細が描かれていますが、保元物語は、さながら、源為朝を主役とした「為朝物語」だったようです。

この為朝、名古屋市中区の闇の森八幡を勧請したと言われており、境内に為朝の鎧塚もあります。また、長男:義次は、元興寺(金山総合駅南口の西300m)に入り、尾頭義次を名乗ったと言われています。非常に、金山にゆかりがある武将です。

伊藤忠清(演:藤本隆宏)も・・
伊藤忠清は、第2回、平清盛の元服式に初登場し、その後、ドラマの最後まで、平氏の軍事責任者として重要な役割を果たします。
・伊藤忠清.JPG
実は、熱田区のひつまぶしで有名な「蓬莱」の北に「景清社」がありますが、これは藤原景清を祀ったもので、景清は、この伊藤忠清の長男です。江戸時代、景清は、浄瑠璃や落語などの題材になった関係で、全国20か所以上、ゆかりの史跡が残っています。この親子は、源平合戦の終盤、伊勢で蜂起し、源氏をてこずらせたと言われています。
ちなみに、第21回、保元の乱で、源為朝に射抜かれてしまった伊藤忠直は、忠清の弟です。

御器所は平氏の所領だったのか?
第16回で忠盛が亡くなり、平氏の棟梁を引き継いだ清盛は、第17回、平氏が領有する荘園の一覧を見せられます。その中に「御器所」や「日置」の文字があります。
・平氏所領.JPG
まったく根拠のない史料なのか? ある程度、史料に基づいたものなのか? 昭和区御器所や中区橘の歴史を知るうえで、見過ごせない情報です。


信西の父と藤原季範の祖父は「またいとこ」
何らかのつながりはあったはず。



取り急ぎ、ここまでとし、随時、加筆したいと思います。





posted by 熱田人 at 16:44| Comment(0) | 名古屋の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月21日

半田を観光してみた(2)・・歴史マニア目線

2017年3月4日(土)、半田に行ってきました。自他ともに観光資源として認めるスポットについては、「半田を観光してみた(1)・・定番観光スポット編」にまとめましたので、ご参照ください。

半田を観光される際には、公的な観光案内に目を通されるよう、お勧めします。
0)パンフ.JPG
半田市観光協会HP
http://www.handa-kankou.com/
半田市役所HP(観光コーナー)
http://www.city.handa.lg.jp/kanko/index.html

さて、今回は、地元も誰も観光スポットと認識していない、公的な観光マップには載っていない歴史マニア目線でのポイントを、いくつか紹介してみたいと思います。

今回、半田に行くことが決まり、さっそく、半田の歴史を調べ、明治23年の地図と現在の地図を比較してみました。
1全域1890.JPG 1全域2017.JPG

人が住んでいたのは、現在の半田駅から運河にかけての広いエリアと、「上半田」と書かれているエリアだったようです。
2上半田広域.JPG 2上半田広域2017.JPG

油樽地蔵
道中、こんなお地蔵さんを見つけました。全国どこでも見られる光景ですが・・
184)油樽地蔵.JPG 185)油樽地蔵.JPG 187)油樽地蔵.JPG
由緒書には、以下のように書かれています。
「1166年前(?)の享保10年、修行僧が小川に沈んでいた地蔵石仏を拾い上げ、油樽を伏せて、その上に安置してお祀りしていた・・岩滑街道と深谷街道との分かれ道に祀られていたものを、昭和5年、知多鉄道の開通と大野街道の開通に伴い、現在地に本堂が建立された・・」とのこと。
享保10年だと1725年なので、ひょっとしたら、この案内板は1991年に書かれたもの?で、「1166年前」ではなく「二六六年前」ということでしょうか。

そこで、この油樽地蔵がある場所を検証してみましょう。
油樽1-1890.JPG 油樽1-2017.JPG
少し絞り込むと・・
油樽2ー1890.JPG 油樽2ー2017.JPG
さらに絞り込むと・・
油樽3-1890.JPG 油樽3-2017.JPG
つまり、カラオケ・ビッグエコーの東側の路地が、上半田と岩滑を結ぶ唯一の道、岩滑街道だったようです。約300年にわたり、道の安全を祈り、繁栄を見守ってこられたお地蔵さんは、今も、地元の方々によって大切にされているようです。

岩滑(やなべ)街道
名古屋と半田を結ぶ道路について、現在、阿久比川の東側に高規格道路の建設が進んでいて、道路事情が激変しそうですが、昭和時代、私が車で半田に行く際、よく利用したのは、名古屋中心部から柴田→名和→東海市を経由して南下する道路でした。

しかし、明治23年の地図には、名古屋と半田を直接結ぶ道路は見当たらず、半田⇔岩滑、岩滑⇔植大、植大⇔阿久比・・というように、隣接する集落を結ぶ道しかなかったようです。
岩滑街道1890.JPG 岩滑街道2017.JPG

ちなみに、明治時代の地図(1890年)の4年前、1886年(明治19年)5月、当初、官営鉄道(現在のJR)は、東海道ではなく中山道ルートで着工され(名古屋飛ばし)、その支線として大垣⇔武豊間が完成したのですが、それは、知多半島の丘陵地帯を避け、東側の海沿いに敷設されました。その直後の7月、やはり官営鉄道は東海道ルートに変更され、すでに中山道ルートの支線として作られていた大垣⇔大府間を東海道線として供用され、大府⇔武豊間は武豊線として、現在に至っています。しかし、東側も、西側と同様、集落と集落を結ぶ道がつながっていただけだったようです。

住吉神社周辺
明治23年の地図によると、住吉神社は、上半田の集落の北のはずれに位置しており、宮池の西側は、もっと南まで伸びていたようです。
住吉1-1890.JPG 住吉1-2017.JPG
そして、上半田とつながる道は、池の東端の一本だけで、それも、住吉神社から西に曲がっています。実は、この道、現在、入水神社の鳥居がある場所で、現在は境内になっています。まさか、この境内の道が、明治時代、唯一の道路だったとは思いもよりませんでした。
住吉2-1890.JPG 住吉2-2017.JPG 147)入水神社?.JPG
もっと、しっかり写真を撮ってくればよかった・・

星名池、星名池地蔵
名鉄知多半田駅の少し北、現在、国道247号線や名鉄知多線が走っている場所には、大きな池があったようです。
星名池1-1890-2.JPG 星名池1-2017.JPG

ズームすると・・
星名池2-1890.JPG 星名池2-2017-1.JPG 
現在の地図ソフトをズームしてゆくと、「星名池地蔵」というものがあり、この池は、星名池という名前だったことがわかりました。

そして、当日、現地に行くと、ありました!上述した油樽地蔵から300mほど南に位置します。
197)星名池地蔵.JPG 204)星名池地蔵.JPG
しかし、お地蔵さんには案内書がなく、地元の人しかわからないでしょう。それと、お地蔵さんの左側の空き地は、どうなるんでしょうか。気になります。

この付近まで池があったのでしょう。そして、池の東岸の道が岩滑街道だったようです。明治時代には唯一の道だったようですから、それ以前も、おそらく唯一の道だったのでしょう。この地域の古代や戦国時代の様子は知りませんが、有名な武将や皇室が往来する機会があったら、この細い道を通ったことでしょう。

星名池東岸・岩滑街道
星名池地蔵から北に向かうと、右手に駐車場がありますが、段差になっています。
206)星名池.JPG 225)星名池.JPG
右の画像は、北から撮ったものです。これが、池と畔の境目だったのでしょうか。

畔の道を北に進むと、すぐに名鉄をわたる踏切がありました。
214)岩滑街道.JPG
そして、踏切を渡った直後、踏切の北側では、道と建物に段差があります。これも、池と畔の境目だったのでしょうか。
215)岩滑街道.JPG

明治時代の地図では、池の東側の道は直線のように描かれていますが、現在の地図では、直線とは言えず、踏切を境に湾曲しています。つまり、踏切から北の道は、昔も池の畔で、踏切から南は、池を埋め立てた部分に道が設けられたのでしょうか。岩滑街道は、踏切のすぐ南で二股に分かれ、線路に沿って右に逸れますが、星名池があった当時は、道は、このまま、まっすぐ南に向かっていたのでしょうか。そして、上述した駐車場の所が畔だったのか?
223)星名池.JPG 星名池東1890.JPG 星名池東2017.JPG

ちなみに、北に進むと、さきほど上述した油樽地蔵に出ます。
187)油樽地蔵.JPG

星名池南西
次に、星名池の南西に周ってみました。
星名池西0-1890.JPG 星名池西0-2017.JPG

星名池地蔵を後にして、名鉄知多線、国道247号線を渡ると・・
226)名鉄踏切.JPG 227)現岩滑街道.JPG
いきなり答えが飛び込んできました。その名も「星名池越流塔」とのこと。
230)星名池南.JPG 234)星名池越流塔.JPG 236)星名池越流塔.JPG
紛れもなく、これが池の南端だったのでしょう。

明治時代の地図では、池の西側には道がなかったようですが、通りかかったお婆さんによると、「池はこの道の東側だったよ」と、即答いただきました。
238)雁宿駐車場西側.JPG

南西端では、細道が目に入ります。工事をしている人が地元の方らしく「そうだよ、その細道が旧道だよ」と教えてくれました。
239)旧道.JPG 248)旧道.JPG 

旧道を100mほど歩くと、新道と合流します。
250)合流点.JPG 星名池西1-1890.JPG 星名池西2-2017.JPG

山神社
明治時代の地図の上半田の最南端に位置する神社にも行ってみました。
3山神社1890.JPG 3山神社2017.JPG

山神社の交差点から南を見ると、明らかな高低差があり「山神社」と呼ばれる所以は、一目瞭然でした。
112)山神社.JPG 3山神社高低差.JPG
右の標高値は、国土地理院の標高地図から拾ったものですが、山神社の交差点から200mほど南下したポイントでは3.6m下がり、知多半田駅の東、セブンイレブンがある交差点とは6m以上の高低差があります。明治時代に入っても、建物は多くなかったようですから、南側からは「山の上の社」に見えたことでしょう。

山神社から南に向かう唯一の道は、神社の東側の細道だったようです。
3山神社ズーム1890.JPG 3山神社ズーム2017.JPG

この細道は、山神社の東側に、今も残っているようです。
114)山神社.JPG 115)山神社.JPG
今回、山神社の南にある旧中埜家住宅を見ることはできませんでしたが、南東側が正面だったのでしょうか。

もっと時間をかければ、正確な情報を得られるのですが、手元の資料が少なく、地元の方々に対して、大変失礼なことを書いたかも知れません。ただ、これが、私なりの楽しみ方であり、その町を知れば知るほど「好き」を上回る感情がわいてまいります。なにとぞ、お許しいただければ幸いです。




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2017年03月06日

半田を観光してみた(1)・・定番観光スポット編

半田市には、仕事で何度も行ったことがあるのですが、ミツカン、新美南吉、ソニーの盛田氏を輩出した町・・という断片的な事象くらいで、観光の対象として見たことはありませんでした。愛知県だと、岡崎、犬山、津島、常滑、稲沢、清須など、それぞれ特徴があって、ローカル番組で取り上げられるのですが、そういえば、私は、観光の対象としての半田の情報は見た記憶がない。周囲に聞いても、同じようなリアクション。

今回、3月4日(土)、半田に行くことになったのですが、天気予報は快晴・無風だし、せっかくの機会だから、積極的にいろいろ調べてみると、蔵、古い町並みなど盛りだくさんで、しかも、駅周辺に密集していて、ほどよい散らばり具合。レンタサイクルもあるらしい。

そこで、観光対象として、地元が発信している定番のスポットと、対象外で、どこにも掲載されない、私が勝手に観光対象にしたものを分けてみたいと思います。今回は、定番観光スポット編です。

今回、非常にお世話になったパンフレット。くしゃくしゃになってしまいましたが、観光協会、市役所のHPでダウンロードできますので、プランニングを楽しむことができます。
0)パンフ.JPG
半田市観光協会HP
http://www.handa-kankou.com/
半田市役所HP(観光コーナー)
http://www.city.handa.lg.jp/kanko/index.html

13時15分、名鉄特急で金山発→13時40分、知多半田着。クラシティ3階の観光案内所でレンタサイクルを申し込み、いざ出発。
4)クラシティ.JPG 7)レンタサイクル.JPG

まずは、運河方面に向かって走り、蔵のまち公園へ。順光を受けた運河は、想像していたより美しかった。右の画像の鳥は置物ではなく、本物です。
36)蔵のまち公園.JPG 37)半田運河.JPG 38)水鳥と蔵.JPG

ミツカンミュージアムは建物だけ拝観し・・
43)ミツカンミュージアム.JPG

蔵の町カフェから細い路地に入り・・
53)蔵のまちカフェ.JPG
小栗三郎兵衛邸→半六庭園→酒の文化館
61)小栗三郎兵衛邸.JPG 69)半六庭園.JPG 71)酒の文化館.JPG

JRの踏切を渡って、紺屋街道を目指します。カラー舗装に沿って進むと、次の目的地:赤レンガ建物まで迷わずに行けるのですが・・
90)踏切.JPG 99) カラー舗道.JPG
私は、このポイントで左に逸れ、ディープな上半田エリアに向かいます。そして、山神社へ。
108)上半田.JPG 129)上半田.JPG 112)山神社.JPG
山神社周辺の詳細は、続編で触れたいと思います。

取り急ぎ、主要目的地を抑えるべく、住吉神社に向かいます。
136)住吉神社.JPG 142)住吉手水.JPG 147)入水神社?.JPG
手水の案内が粋です。右の画像は東側入口にある鳥居。入水神社と書かれています。実は、この鳥居がある場所、半田の歴史を語るうえで、重要なカギを握る場所でした。詳しくは、続編で。

そして、宮池を一周する形で南下し、赤レンガ建物に向かいます。
151)住吉→赤レンガ.JPG 156)赤レンガ.JPG
赤レンガ建物は、明治時代に大ブレイクしたカブトビールの工場跡地です。正面より南西側から見る方が美しい。冷蔵庫がなかった時代、ビールは常温で嗜まれたそうです。この日は、たまたま、ライブをやっていました。
158)赤レンガ南西から.JPG 163)赤レンガ正面.JPG 169)FAITH FOR.JPG
建物内のカフェでカブトビールも飲めます・・が、私は、自転車ですからビールは飲めません。ジャーマンプレートとビールのセットは1400円也。プレート単品は、たしか750円だったか・・
171)カブトビール.JPG 176)ジャーマンプレート.JPG

その後、マニアックな場所を巡って、18時、ごん吉くん号を返却し、この日の目的地へ。
8)ごん吉くん号.JPG

19時半〜中町のICHICAFEで、わくわくHOT4のライブ。
286)ICHI CAFE.JPG 266)わくわく.JPG 263) わくわく.JPG

本当に、いい町、いいお店、いいライブでした。それにしても、愛知県内にも、まだまだ知らないスポットがあるとはいえ、半田については、クォリティの高さに比べて、あまりにもPRが少ないのではないでしょうか。町をPRすると企業のPRになってしまうから?でしょうか。

今回、新美南吉エリアは行きませんでしたが、次回の課題にしたいと思います。また、非定番観光スポットのマニアックな特集は、続編で。



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2017年02月15日

2017年限定!名古屋グランパスのダービーマッチを考えてみる

2017年、名古屋グランパスは、初めてJ2で過ごすのですが、江戸時代の初代藩主の7割が愛知県出身 であることから、J2各チームと愛知のご縁は非常に深いです。そこで、勝手にダービーマッチを考えてみました。真剣に応援している方々には大変失礼なのですが、1年限りですのでお許しを。地域間の相互交流、地域の活性化、Jリーグのメディア機能の普及につながれば幸いです。まずは、概略のみ。随時、個々に詳細記事を更新するかも知れません。

加藤清正ダービー(vs熊本)
名古屋城・熊本城を築城した初代熊本藩主:加藤清正は中村区出身。羽柴秀吉とは、母親同士が従姉妹の関係。また、生駒親正が讃岐に着任するまで、代理で讃岐を統治したという記録もあるようです。

織田信長ダービー(vs岐阜)
織田信長は尾張で生まれ、父:信秀が古渡城(現在の東別院)を築城すると、2歳の信長を那古野城主とします。信長は、古渡城(現在の東別院周辺)で元服し、22才で清須に移り、その後、小牧山を経て、33歳のとき、岐阜に移って天下布武を掲げました。信長49年の生涯のうち46年間を、愛知県、岐阜県で過ごしたことになります。

前田利家ダービー(vs金沢)
加賀百万石の礎を作った前田利家は、現在の名古屋市中川区荒子出身。

御三家ダービー(vs水戸)
徳川将軍家を支えた親藩御三家は、家康の九男:徳川義直(尾張藩)、十男:徳川頼宣(和歌山藩)、十一男:徳川頼房(水戸藩)。ちなみに、水戸黄門(徳川光圀)は、頼房の三男です。

義直ダービーorお亀ダービー(vs京都)
初代尾張藩主:徳川義直の生母は、京都:石清水八幡宮の宮司家の分家:志水宗清(正法寺)の娘:お亀の方。お亀は、最初、竹腰正時に嫁ぎ、長男:竹腰正信を産みますが、正時が逝去して未亡人となったところ、家康に見初められ、1601年、家康の九男:義直を生みます。その後、義直が初代尾張藩主となると、お亀の方は、名古屋城で余生を過ごし、義直の同母兄の竹腰正信の子孫は、代々、尾張徳川家の重臣となりました。

虎姫ダービー(vs大分)
戦国時代、現在の名古屋市昭和区の尾陽神社の場所に御器所西城があり、織田信長の家臣:佐久間氏が治めていました。本能寺の変で信長亡きあと、羽柴秀吉と柴田勝家による覇権争いでは、柴田勝家の姉が佐久間氏に嫁いでいたこともあり、御器所西城主:佐久間盛政は、柴田側につきました。賤ケ岳の戦いの序盤、佐久間盛政は、秀吉側の中川清秀を討ち取りましたが、その後、秀吉が挽回し勝利しました。羽柴秀吉は、敵ながら佐久間盛政の武勇を惜しみ、家臣にしようと打診するものの、盛政は、斬首を希望。その潔さを買って、秀吉は、御器所にいた盛政の娘:虎姫と中川清秀の嫡男:秀成との婚姻を促しました。後に、秀成は、豊後:岡城主となりますが、妻の虎姫が佐久間氏の再興を願っていることを知り、虎姫との間に生まれた子供のひとりに佐久間氏の再興を託しました。その縁で、佐久間氏の菩提寺は、大分県竹田市の英雄寺であり、その子孫は、今も竹田市で繁栄を続けているようです。

加藤嘉明ダービー(vs愛媛)
松山城を築城し「松山」という地名を名付けた加藤嘉明は、秀吉の賤ケ岳七本槍の一人。愛知県西尾市出身。

蜂須賀正勝(小六)ダービー(vs徳島)
昨今、名古屋の「どまつり」など、高知のよさこい祭りのテイストを取り入れた踊りが全国的に盛んになりましたが、「よさこい祭り」は、昭和に入ってから、高知の人々が徳島の阿波おどりに対抗して始められたとのこと。その阿波踊りの起源は不確実であるものの、初代徳島藩主:蜂須賀正勝(小六)が始めさせたとの説も。蜂須賀正勝は現在の愛知県あま市出身ですから、どまつりのルーツを辿ると、愛知県に戻ってくる?

生駒ダービー(vs讃岐)
初代讃岐藩主は生駒親正。生駒家は、織田信長の生母:土田御前の縁戚。また、織田信長の側室で、長男:信忠、次男:信雄の生母である生駒吉乃も親戚。しかし、生駒氏の活動エリアは、ほとんど尾張だったと思いますが、生駒氏の元は可児ですから、生駒ダービーは「岐阜vs讃岐」かも?
*上述したように、生駒親正が讃岐に着任するまで、加藤清正が代わりに統治したとの記録もあるようです。

吉良ダービー(vs山形)
3代目米沢藩主:上杉綱勝は後継者がいないまま死去し、上杉家断絶の危機が迫ったとき、「忠臣蔵」で有名な吉良義央の長男:綱憲が上杉家の養子に入り、上杉家を継ぐことになりました。これは、吉良義央の正室:上杉富子が米沢藩2代藩主:上杉定勝の子であり、上杉家の血を引き継いでいたから・・という背景がありました。これにより、吉良家は後継がなくなったのですが、今度は、綱憲の次男(吉良義央の孫)が吉良家の養子となり、吉良家も存続することになりました。

取り急ぎ、ここまでとします。


松本山雅vs名古屋 *2017年3月28日:加筆
松本城の国宝天守閣を築いたのは、石川数正・康長親子。石川数正といえば、家康の重臣で、NHK大河ドラマ「おんな城主直虎」で、菜々緒が自害に追い込まれる寸前、馬に乗って現れ救った人です。あの後、秀吉に寝返り、関東の家康を監視させる目的で、石川親子は、松本に送り込まれました。時代は流れ、家康の天下になると、今度は、家康によって、大坂の豊臣包囲網として名古屋城が築かれます。松本山雅vs名古屋グランパスは、秀吉vs家康の代理戦争と言えるわけです。



1万年前、名古屋の半分は海の中だった・・「名古屋の歴史」は地形から
http://atsutajin.seesaa.net/article/392938818.html
尾張の斯波氏が、すごい人だった件・・織田信長のルーツ
http://atsutajin.seesaa.net/article/398276964.html
清須越・名古屋城築城・尾張徳川家
http://atsutajin.seesaa.net/article/414772060.html
名古屋史的定点観測:広小路・栄界隈
http://atsutajin.seesaa.net/article/403995218.html
名古屋史的定点観測:金山界隈(1)・・総論
http://atsutajin.seesaa.net/article/405132992.html
名古屋史的定点観測:金山界隈(2)・・旧中央線沿線など
http://atsutajin.seesaa.net/article/419456684.html
名古屋史的定点観測:金山界隈(3)・・波寄界隈
http://atsutajin.seesaa.net/article/432336054.html
名古屋史的定点観測:金山界隈(4)・・東海道本線貨物支線
http://atsutajin.seesaa.net/article/432464514.html
名古屋史的定点観測:金山界隈(5)・・市電が急坂を登る!迂回線、天下茶屋など
http://atsutajin.seesaa.net/article/432470924.html
名古屋史的定点観測:大須2丁目界隈
http://atsutajin.seesaa.net/article/433526103.html
教育制度の変遷と名古屋市立平和小学校の成り立ち
http://atsutajin.seesaa.net/article/433112028.html
名古屋史的定点観測:御器所村界隈
http://atsutajin.seesaa.net/article/411951160.html
名古屋史的定点観測:千種村(今池)
http://atsutajin.seesaa.net/article/413340912.html
信長協奏曲レビュー(1)
http://atsutajin.seesaa.net/article/407120789.html
のぼうの城、成田長親、大光院(大須)、松平忠吉、明嶺理察
http://atsutajin.seesaa.net/article/422005303.html
清須越前の末広町周辺
http://atsutajin.seesaa.net/article/423566173.html
「九丁堀」の由来を検証してみる
http://atsutajin.seesaa.net/article/424668210.html
伏見通や桜通が、戦前まで狭かった件
http://atsutajin.seesaa.net/article/420623368.html
高座さん(たかくらさん)の縁日に行ってみよう!
http://atsutajin.seesaa.net/article/438189284.html
岡崎市と名古屋市のつながりは徳川家康だけではない!・・瀧山寺と熱田神宮
http://atsutajin.seesaa.net/article/446603689.html
2017年限定!名古屋グランパスのダービーマッチを考えてみる
http://atsutajin.seesaa.net/article/447027530.html

鈴鹿市誕生の背景
http://suzuka666.seesaa.net/article/394736858.html
古代から中世の三重県北中部
http://suzuka666.seesaa.net/article/312895302.html
三重県の人が映画「清須会議」を100倍楽しむ方法
http://suzuka666.seesaa.net/article/380648772.html
藤枝と鈴鹿、ふたつの白子町
http://suzuka666.seesaa.net/article/165690072.html
第一回「白子ダービー」は激闘ドロー
http://suzuka666.seesaa.net/article/166323254.html
四日市の今昔
http://suzuka666.seesaa.net/article/409328983.html
120年前(明治23年)の鈴鹿市立若松小学校周辺
http://suzuka666.seesaa.net/article/410815634.html
2015年9月10日、近鉄白子駅が100周年を迎える件
http://suzuka666.seesaa.net/article/415268773.html

宮崎市皇宮神社で「宮崎」を見た?
http://atsutajin.seesaa.net/article/438155898.html

posted by 熱田人 at 17:29| Comment(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月03日

岡崎市と名古屋市のつながりは徳川家康だけではない!・・瀧山寺と熱田神宮

徳川家康は岡崎で生まれ、天下統一の最終章:豊臣包囲網の一環として、名古屋台地の山を削って谷を埋め、そこに、清須から町ごと引っ越して「城下町:名古屋」を造成し、そのシンボルとして名古屋城を築城しました。

徳川家康が活躍した時代からさかのぼること500年強、岡崎と名古屋には深いつながりがあったのです。現在の岡崎城、岡崎市街地の北東、青木川の上流に、瀧山寺(たきさんじ)という寺院があります。1300年もの歴史を誇る瀧山寺は、熱田神宮と深い関わりがありました。
瀧山寺公式HP.jpg
http://takisanji.net/

熱田神宮大宮司家の多くが仏門(瀧山寺)に
下の熱田神宮の家系図は、2016年、私が瀧山寺を訪れた際、撮影させていただいたものです。この中に、源義朝、頼朝の名前もありますが、頼朝の母方(熱田神宮)には「瀧山寺」と付された人が3人もいます。どのような経緯で、熱田神宮と瀧山寺が結びついたのでしょうか?
家系図.JPG
*「河内源氏の栄枯盛衰と熱田神宮」については、改めてまとめたいと思います。

現在の岡崎を開墾したのは、藤原季兼(すえかね)
岡崎城は、徳川家康の祖父:松平清康が、安城から移ってきた際に築城されたもので、岡崎市史によりますと、まだ日本の大部分が未開地だった平安時代、初めて額田郡一帯を開墾したのは、当時の三河国司:藤原季綱(すえつな)の弟:藤原季兼(すえかね)だったようです。*大化の改新の中心人物:中臣鎌足を祖とする藤原氏の栄枯盛衰については、改めてまとめたいと思います。

当時の藤原氏は・・
平安時代、中央政権の要職・摂関家は、藤原道長に代表される「北家」が独占していましたが、当時、日本の人口は500万人。まだまだ未開の地だらけでした。そこで、未開の地を開墾して農作物を育てられるようにしたり、人が暮らせるようにすると、褒美として、その土地を領有することが許されていました。これが、荘園です。

藤原季綱・季兼兄弟が三河を開墾する・・
そんな中、藤原南家の藤原季綱(すえつな)が三河国司として着任した関係からか、その弟:藤原季兼(すえかね)が、現在の岡崎市を中心とした額田郡を開墾したそうです。岡崎市史によりますと、後に鳥羽上皇の皇女:八条院の領地となる加茂郡高橋荘(豊田市)も、季兼が寄進したものらしく、季兼は「参川四郎大夫」との異名の通り、額田郡にとどまらず、三河国の複数の郡にまたがる広大な土地を領有していたようです。

また、鳥羽天皇(法皇)の由来となった「鳥羽離宮」は、藤原季兼の兄:季綱が、自分の別邸だった土地・建物を皇室に寄進したものがベースになったのだそうで、藤原兄弟の財力は、当時の皇室にとって、非常に魅力があったのではないでしょうか。

保元の乱の黒幕:信西(しんぜい)は、藤原季綱の孫
ちなみに、藤原南家出身でありながら摂関家を凌ぎ、天皇の人事にまで権勢をふるい、保元の乱の黒幕となった信西(=出家前は高階通憲)は、藤原季綱の孫にあたります。2012年NHK大河ドラマ「平清盛」では、阿部サダヲが演じ、当初は、官位も低く摂関家から見下される様子が描かれていました。ドラマでは、信西は、後白河天皇の乳父となったことによって高い地位を得たように表現されていますが、その背景には、祖父の藤原兄弟の財力も影響したのではないか?と推測しています。
信西.JPG

藤原季兼の本拠地は?
岡崎市史によりますと、藤原季兼の本拠地は、青木川流域・瀧山寺周辺だろうと推定されています。重要文化財である瀧山寺の三門から本堂までの約1キロの中に360もの塔頭(たっちゅう)が建っていた・・とのことで、それはそれは賑やかな寺院群だったことでしょう。
google瀧山寺.JPG 三門.JPG

そして、藤原南家が熱田神宮とつながる
その藤原季兼に嫁いだのが、熱田神宮大宮司:尾張員識(かずとき)の娘:尾張識子(ときこ?)でした。やがて、員識にとって待望の孫:季範(すえのり)が生まれたのですが、1102年、季範が12歳のとき、季兼が58歳で亡くなり、識子は未亡人となりました。(父子の年齢差を見ると、識子は後妻さんだったのではないかと推測します)

そこで、員識は、未亡人となった識子と孫の季範を熱田に呼び寄せ、自分のもとで養育したそうです。ですから、形式上(戸籍上)、藤原季範は、尾張員識の外孫ではありますが、実質的には内孫であり、たいそう可愛がったことでしょう・・というか、その時点では、季範は、季兼の財産をいくらか相続していたでしょう。

そして、熱田神宮大宮司職は藤原氏に・・
そして、1114年、尾張員識は、当時24歳の藤原季範に大宮司職を譲ります。季範は尾張氏の血も引き継いでいますから、この瞬間、熱田神宮は、藤原家とつながり、さらに財力をも備えることになったわけです。

河内源氏の復活・再生・大逆転の原動力は熱田神宮にあり?
藤原季兼の子:藤原季範(すえのり)は、大宮司職に就任する前、あるいは就任後、河内源氏の源行遠(ゆきとお)の娘と結婚したようです。行遠は、白河法皇が創設した北面武士の初期メンバーですから、白河法皇から直接の信頼を得る人物だったと思います。これが、河内源氏と熱田神宮の最初の接点だったようです。

そして、季範は多くの子女をもうけるのですが、久安年間(1145年〜1151年)、三女である由良姫を源義朝に嫁がせます。由良姫の生母については不明のようです。2012年NHK大河ドラマ「平清盛」では、平氏の後塵を拝していた源義朝(演:玉木宏)が東国に向かう途中、熱田で強盗に襲われている大宮司:藤原季範(演:山口良一)を助け、そこで由良姫(演:田中麗奈)と出会い、由良姫は、源義朝に一目ぼれした・・という設定でした。そして、後に、由良姫が京に移って統子内親王(むねこないしんのう=後の上西門院)に仕えると、再三、義朝の父:為義(演:小日向文世)の元を訪れ、自身と朝廷とのつながりをアピールしました。その後、東国から戻った義朝も、源氏復活の千載一遇のチャンスと捉え、二人は結ばれたようです。*源氏が「復活」しなければならないほど落ちぶれていた経緯についても、改めてまとめたいと思います。
由良と義朝.JPG 藤原季範.JPG 由良と義朝2.JPG
ドラマでは、熱田神宮の財力に触れることはありませんでしたが、平氏が、宋との貿易で財をなし王家に寄進を重ねて昇進していったことを考えると、源氏にとって、藤原季範の財力も、のどから手が出るほど魅力を感じたのではないでしょうか。

源頼朝が、熱田で生まれる
そして、1147年、由良姫は、第一子:頼朝を出産します。その場所としては、熱田神宮の西にあった藤原氏の別邸(その後、誓願寺)か、瑞穂区の津賀田神社といわれており、いずれにしても、里帰り出産だったようです。
誓願寺 (3).JPG 誓願寺 (1).JPG 誓願寺2.JPG

そして、1156年、保元の乱において、熱田神宮は、源義朝に援軍を出したのです。

熱田神宮の子女は、次々、京に・・
熱田神宮大宮司:季範の子女は、次々京に移り、お妃の侍女として仕えていました。由良姫のふたりの姉も、上西門院、その母:待賢門院に仕えていました。また、由良姫の兄:範忠(後の大宮司)は、美福門院の女房(侍女)を妻に迎え、熱田神宮と朝廷とのつながりは幾重にも及びました。源頼朝も、1158年、11歳の時、統子内親王の立后にあたり皇后に仕える皇后宮少進に任命され、翌1159年には、統子内親王が女院号宣下されると、その蔵人に任命されたのです。藤原摂関家の発言力が低下し、白河法皇・鳥羽法皇の院政の時代に移っていたことを考えると、その妃の発言力も相対的に強くなっていた時代だったと思います。

大河ドラマ「平清盛」では、源義朝の官位が上がった背景について、常盤御前(演:武井咲)を側室に迎えたことによってさらに王家に近づいたから・・のように表現されていましたが、実は、源義朝が従五位下に叙されたとき、同時に、由良姫の兄である熱田神宮の藤原範忠も同じ官位に叙されています。ですから、少なくともこの叙任については、常盤御前の影響力より、由良御前の影響力の方が大きかったのではないかと推測します。

なぜ、平清盛は、頼朝を殺さなかったのか?
その後、平治の乱(1159年)で、源氏は敗軍となり、源義朝は知多の野間で家臣に裏切られて殺害され、まだ13歳だった源頼朝も、清盛によって殺害される運命にあったわけですが、結局、平清盛は、頼朝を殺害せず、伊豆に配流・・という措置を取りました。なぜ、殺害しなかったのでしょうか。

清盛の母である池禅尼(いけのぜんに)も、もとは待賢門院(たいけんもんいん)に仕えていたこともあり、多方面から頼朝の助命の懇願があったことは、容易に推測されるわけです。
*大河ドラマ「平清盛」では、清盛は白河法皇と愛人との間に生まれた子とされ、池禅尼は、清盛の育ての親ということになっていますが・・

かくして、源頼朝は、後に、鎌倉幕府を開き、初めて武士として頂点を極めたのです。


瀧山寺の本堂は、足利義氏の建立
話を瀧山寺に戻しますと・・重要文化財の瀧山寺本堂(冒頭の画像)は、当時の三河守護:足利義氏による建立とのことです。平安時代まで「国司」と呼ばれていた地方官は、鎌倉時代に入ると「守護」と呼ばれ、承久の乱(1221年)の恩賞として、足利家3代当主:足利義氏が三河守護に任ぜられました。足利義氏は、2代目当主:足利義兼の三男で、足利氏3代目当主であり、足利尊氏の「祖父の曽祖父」にあたります。つまり、尊氏の5代前の足利家当主です。なぜ、足利義氏は、瀧山寺に寄進したのでしょうか?三河守護だから・・でしょうか?

足利氏にも熱田神宮の血が流れる?
冒頭の熱田神宮の家系図に戻りますと、「足利義氏」の名前が登場します。足利氏も、実は、河内源氏の分家で、足利氏の祖である源義康(=足利義康)の父:義国と義朝の祖父:義親(よしちか)が兄弟でした。これだけだと、関係が深いのか浅いのか判断材料になりませんが、実は、源義朝が熱田神宮の由良姫を娶ったほとんど同じ時期、あるいは同時に、源義康(足利義康)も、熱田神宮の娘を娶っているのです。実際には、藤原季範の長男:範忠の娘(孫)を養子にして嫁がせたので、由良姫と季範の孫娘(養女)は義理の姉妹ということになります。由良姫が季範の9人目の子女だったことを考えると、由良姫と季範の孫娘は、同じような年齢だったのでしょう。ちなみに、源義朝は足利義康より一世代上ですが、年齢はわずか4歳違いです。同じ熱田神宮の姉妹を、しかも同時に正室を迎えたとなると、源義朝と足利義康は、5親等ではありますが、兄弟(2親等)のような関係だった可能性も拭えないと思います。

余談ですが、足利氏初代当主の正室が熱田神宮大宮司の娘だった・・となると、その後の足利氏本家だけでなく、分家となった吉良氏、斯波氏、今川氏、細川氏、一色氏など、多くの子孫に熱田神宮の血が流れていることになります。

そして、足利義康の三男:足利義兼は、三男でありながら足利家2代目当主になったのですが、ウィキペディア「足利義兼」によりますと、「義兼は比較的早い時期から頼朝に従軍していた」とされています。そして、その理由として、「河内源氏の一族であり、また以仁王を養育したワ子内親王(八条院)の蔵人でもあった関係からか?」とされています。たしかにそうでしょうけど、源頼朝と足利義兼は、ともに母が熱田神宮の姉妹同士(義理とはいえ)ですから、互いの父も実質兄弟だし、ましてや、両親の結婚が同時だったとしたら、頼朝と義康は、普通の従兄弟以上に濃い関係だったことでしょう。義兼の異母兄たちとは比べ物にならないほど親しかったのは疑う余地はないでしょう。

熱田神宮、源氏、足利氏、北条得宗家(執権)・・
そして、足利義兼の代からは、3代続けて、足利氏当主が、北条得宗家の娘を正室に迎えます・・というか、3代続けて、北条得宗家から迎えた正室(後妻)の子が嫡男・当主となりました。この結果、足利氏は、3代続けて、最初の妻から生まれた長男が分家となり、上述のように、吉良氏、斯波氏などを輩出することになりました。この部分については、「尾張の斯波氏が、すごい人だった件・・織田信長のルーツ」も、ご参照ください。

河内源氏による鎌倉将軍は、初代:頼朝、2代:頼家、3代:実朝で途絶えましたが、足利氏は、北条得宗家とも厚い関係を構築していたため、河内源氏が衰退して権力が北条得宗家に移った後も、鎌倉幕府の御家人として非常に重要なポジションを維持することになり、これが、後の足利尊氏の室町幕府につながってゆくのです。

*ただし・・余談ですが、足利尊氏も熱田神宮に剣を奉納した記録があるものの、熱田神宮は、後に、尊氏と敵対関係に陥った後醍醐天皇の武臣だった時代もあったようです。その背景など、改めて詳しく勉強したいと思います。

*もうひとつ余談ですが、河内源氏による鎌倉将軍3人に熱田神宮の血が流れていることは明白ですが、4代目から、将軍の座は藤原北家、皇族に移りました。しかし、頼朝の妹:坊門姫が藤原北家の一条能保に嫁ぎ、その2人の娘が、九条良経、西園寺公経に嫁いだことにより、別ルートから権力の中枢に近づき、なんと、鎌倉将軍9人のうち8人に熱田神宮の血が流れていたのです。この他にも、坊門姫は、多くの子孫につながっていますので、「熱田神宮ってこんなにすごい!」的なものを、別途まとめたいと思います。

もう一度、足利義氏に話を戻しますと・・
上述のように、河内源氏、足利氏、藤原南家(熱田神宮)のトライアングルは非常に強固だったのですが、さらに、足利氏3代目当主:足利義氏の妹が、熱田神宮の野田朝氏に嫁いでいますので、足利義氏自身が、熱田神宮の野田朝氏と義理の兄弟になります。このように考えると、三河守護となった義氏にとって、瀧山寺に深い思い入れがあったことは、これまた容易に推測できるわけです。

瀧山寺の鬼まつり
河内源氏、足利氏、藤原南家(熱田神宮)トライアングルのシンボルでもある瀧山寺では、毎年旧暦元旦から7日間、本堂で修正会(しゅしょうえ)が行われ、その最終日の夕刻に鬼まつりが催されます。運慶作と伝えられる面をつけた鬼が、炎の中から鏡餅を持って現れ、天下泰平・五穀豊穣を約束するとのことです。2017年は、2月11日(土・祝)とのこと。ぜひ一度、訪れられたらいかがでしょうか。
2017鬼まつり.JPG
*2017年鬼まつりの様子は、改めてまとめたいと思います。







posted by 熱田人 at 15:09| Comment(0) | 愛知県の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月23日

高座さん(たかくらさん)の縁日に行ってみよう!

毎年6月5日の熱田まつり(花火大会)は、名古屋の夏の到来を告げる風物詩として認知度が高まったようですが、実は、その4日前の6月1日は、高座さん(=高座結御子神社、たかくらむすびみこじんじゃ)の例祭があります。前日の5月31日から周辺道路は交通規制が敷かれ、5月31日夕方から6月1日夜まで、縁日が開かれます。地下鉄「西高蔵」駅1番出口から東に100mですから、通勤・通学の帰り道、途中下車して、ちょっと立ち寄られたらいかがでしょうか。
・西の鳥居.JPG
*ただし、両日とも、21時に交通規制が解除されますので、おそらく、露店は20時ごろに撤収されると思います。また、周辺は住宅地ですので、近隣住民に配慮をお願いします。

高座結御子神社(たかくらむすびみこじんじゃ)とは・・
古事記・日本書紀でのお話ですが、後に初代天皇となったイワレビコ(神武天皇)が、日向(現在の宮崎県)から大和(奈良県)に向かう途中、イワレビコに霊剣を提供したのが高倉下命(タカクラジノミコト)。高座さんは、その高倉下を祭神としています。創建は熱田神宮と同時期、あるいは天武天皇の時代とも言われていますので、熱田神宮と同時期だったら1900年前、天武天皇の時代だったら1200年前から現在の地に鎮座し、私たちを見守っていただいているわけです。
・由緒.JPG

高座さんの例祭・井戸のぞき・・御井社(みいしゃ)
高座さんは、古くから、子育ての神様と言われており、特に、御井社(みいしゃ)の井戸に住んでいる龍神様が、子供たちの疳の虫(かんのむし)を治してくれるという言い伝えから、子供たちに高座さんの井戸を覗かせる風習がありました。御井社は、社務所のすぐ左横にあります。
・御井社.JPG ・社務所.JPG ・昭和27年の井戸のぞき.JPG
上の右の画像は、昭和27年の例祭・井戸のぞきの様子です。高座さんの井戸に掲載されている写真を使用させていただきました。地域の人々が何百年も守ってきた文化を、私たちも大切にし、次の世代、未来の子供たちにつなげたいものです。

高座さんと豊臣秀吉
豊臣秀吉が幼いころ、母(=後の大政所)に手を引かれて、高座さんにお参りした・・という話が残っているようです。そこで、境内のお稲荷さん(高座稲荷社)は「太閤出世稲荷」とも呼ばれ、立身出世、商売繁盛のお稲荷様として篤く信仰されているようです。豊臣秀吉の母の実家は御器所村(=現在の御器所八幡宮の近く)ですから、実家にも寄られたことでしょう。
・太閤出世稲荷 (1).JPG ・太閤出世稲荷 (2).JPG

高座さんと織田信長
織田信長や蜂須賀家政が、社殿の造営に協力したという記録があるようです。
・本殿.JPG
現在の社殿は、昭和38年に竣工されたようです。

アクセス
高座結御子神社(たかくらむすびみこじんじゃ)・・地下鉄名城線西高蔵駅1番出口から徒歩1分
アクセス金山から.JPG アクセス西高蔵から.JPG           
例祭の期間中は交通規制が敷かれますが、普段は、南側の鳥居から車で境内に入ることができ、2〜3台の駐車スペースがあります。

熱すぎる!2016年初夏の熱田
5月31日(火)高座結御子神社例祭宵宮祭
6月1日(水)高座結御子神社例祭、あつた宮宿会朔日市(圓通寺)
6月4日(土)、5日(日)手羽先サミット(金山総合駅南口)
6月5日(日)熱田神宮例祭(花火大会)



1万年前、名古屋の半分は海の中だった・・「名古屋の歴史」は地形から
http://atsutajin.seesaa.net/article/392938818.html
尾張の斯波氏が、すごい人だった件・・織田信長のルーツ
http://atsutajin.seesaa.net/article/398276964.html
清須越・名古屋城築城・尾張徳川家
http://atsutajin.seesaa.net/article/414772060.html
名古屋史的定点観測:広小路・栄界隈
http://atsutajin.seesaa.net/article/403995218.html
名古屋史的定点観測:金山界隈(1)・・総論
http://atsutajin.seesaa.net/article/405132992.html
名古屋史的定点観測:金山界隈(2)・・旧中央線沿線など
http://atsutajin.seesaa.net/article/419456684.html
名古屋史的定点観測:金山界隈(3)・・波寄界隈
http://atsutajin.seesaa.net/article/432336054.html
名古屋史的定点観測:金山界隈(4)・・東海道本線貨物支線
http://atsutajin.seesaa.net/article/432464514.html
名古屋史的定点観測:金山界隈(5)・・市電が急坂を登る!迂回線、天下茶屋など
http://atsutajin.seesaa.net/article/432470924.html
名古屋史的定点観測:大須2丁目界隈
http://atsutajin.seesaa.net/article/433526103.html
教育制度の変遷と名古屋市立平和小学校の成り立ち
http://atsutajin.seesaa.net/article/433112028.html
名古屋史的定点観測:御器所村界隈
http://atsutajin.seesaa.net/article/411951160.html
名古屋史的定点観測:千種村(今池)
http://atsutajin.seesaa.net/article/413340912.html
信長協奏曲レビュー(1)
http://atsutajin.seesaa.net/article/407120789.html
のぼうの城、成田長親、大光院(大須)、松平忠吉、明嶺理察
http://atsutajin.seesaa.net/article/422005303.html
清須越前の末広町周辺
http://atsutajin.seesaa.net/article/423566173.html
「九丁堀」の由来を検証してみる
http://atsutajin.seesaa.net/article/424668210.html
伏見通や桜通が、戦前まで狭かった件
http://atsutajin.seesaa.net/article/420623368.html

鈴鹿市誕生の背景
http://suzuka666.seesaa.net/article/394736858.html
古代から中世の三重県北中部
http://suzuka666.seesaa.net/article/312895302.html
三重県の人が映画「清須会議」を100倍楽しむ方法
http://suzuka666.seesaa.net/article/380648772.html
藤枝と鈴鹿、ふたつの白子町
http://suzuka666.seesaa.net/article/165690072.html
第一回「白子ダービー」は激闘ドロー
http://suzuka666.seesaa.net/article/166323254.html
四日市の今昔
http://suzuka666.seesaa.net/article/409328983.html
120年前(明治23年)の鈴鹿市立若松小学校周辺
http://suzuka666.seesaa.net/article/410815634.html
2015年9月10日、近鉄白子駅が100周年を迎える件
http://suzuka666.seesaa.net/article/415268773.html

宮崎市皇宮神社で「宮崎」を見た?
http://atsutajin.seesaa.net/article/438155898.html


posted by 熱田人 at 17:50| Comment(0) | 名古屋情報 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月22日

宮崎市皇宮神社で「宮崎」を見た?

2016年2月18日、初めて宮崎県に行きました。いろいろな場所に行ったのですが、取り急ぎ、皇宮神社、皇宮屋(こぐや)のみ、紹介したいと思います。

皇宮神社は、JR宮崎駅から北西に3キロ、宮崎神宮の西500メートルに位置します。
皇宮神社(現在.JPG
宮崎神宮の公式HPによりますと、「皇宮神社とは宮崎神宮の元宮」であり、皇宮屋(こぐや)については、「神武天皇は諸県の高原郷の狭野原(現在の高原町狭野)で御生誕になられ、十五才にして皇太子に即かれると宮崎にお移りになり、大和地方にご出発になる四十五歳まで当地に宮居されたと云う事である。この地は、今の宮崎神宮の地に宮居なさる以前の宮居の地か、或は行宮の跡であったのではなかろうかと思われる。」と記されています。
http://miyazakijingu.jp/modules/gnavi/index.php?lid=3

つまり、神武天皇が日向から東征に出発するまで住んでおられた場所・・ということです。


さて、この日は、平和台公園までバスで行き、八紘一宇の塔を見て、そこから徒歩で向かいました。
・八紘一宇.JPG

皇宮神社は、本来、南側が正規の入り口のようですが、平和台公園から歩いたので、北西方面からのアクセスとなりました。

北西から入ると、いきなり、皇宮屋(こぐや)がありました。
・皇宮屋.JPG
パワースポットと呼ばれる場所はたくさんありますが、これほどの霊気を感じるパワースポットは、そうお目にかかれません。

さらに、奥に進んでゆくと、本殿がありました。
・本殿.JPG
参拝記帳は、初めて見ました。私以外は、全員、地元の方でした。
・記帳台.JPG
そして、「皇軍発祥の地」の塔を通り・・
・皇軍発祥の地.JPG

本来の入り口に立ったのですが・・

あっ、「宮崎」だ!    と、心の中で叫んでしまいました。

画像ではわかりづらいかも知れませんが、そこは、15メートルくらい(?)の高低差があり、眼下には、宮崎市街地が広がっていたのです。300メートルほど右手には大淀川が流れています。
・市街地.JPG
下から見た階段。さらに、この後方に10段以上の階段があります。
・下から.JPG

この数年、名古屋の歴史を勉強していて、1万年前は、今より海面が数メートル高かったため、低地は海だった・・というのがインプットされていました。
*1万年前、名古屋の半分は海の中だった・・「名古屋の歴史」は地形から
http://atsutajin.seesaa.net/article/392938818.html
そして、海面の高さは、名古屋と宮崎で大きな差はないはずなので、宮崎市街地も、時代によっては、海の底だった時期があったはず。

だから、眼下に広がる市街地が海に見えて、「岬の先端に宮があった地」ということで、宮崎だ!と感じた次第です。

冒頭の地図を、今一度見てみましょう。
皇宮神社(現在.JPG
そして、これ(↓)は、仮に現在より海面が13メートル上昇した場合の同範囲の地図です。
皇宮神社(海面UP.JPG
http://flood.firetree.net/
宮崎駅周辺や宮崎神宮周辺も白くなっていますが、これは、衛星写真を使用されているため高層ビルや森林がそのまま反映されてしまっていることによると思います。

そういう時代があったかどうかは知りませんが、仮に、海面が今より13メートル高かったら、こういう風景に近いものだったのではないか?ということです。

「宮崎」の由来の正解は?
実は、宮崎に出発する前、宮崎の由来について、ネットで調べたのですが、「崎」という字を当てているものの、これは「さき=前」であり、「宮前」の意味・・というものが有力であるようです。

そして、帰宅後、さらに調べたら、「宮」とは、江田神社、奈古神社が有力とのこと。確かに、これらの神社も、今より13メートル海面が高い時代でも水没しないようです。
奈古神社、江田神社.JPG

結論として、古くから存在する神社は高台にある・・という基本に戻っただけでした。

いつか、江田神社、奈古神社にも行って、そこから景色を眺めてみたいと思います。
「宮崎」と名づけた人の気持ちがわかることでしょう。
机の上でも膨大な情報を得られますが、やはり、現地にはかないません。

「宮崎」と名づけた人は、江田神社、奈古神社のことを指したかも知れませんが、皇宮神社から見下ろした風景も、「宮崎」を連想させてくれたことは、事実です。
ソフトバンクのキャンプも楽しかったし、夜の鶏づくしも美味しかった。H君、ありがとう。
出会って話し込んだ現地の方々もいい人ばかりで、本当に楽しい旅でした。


1万年前、名古屋の半分は海の中だった・・「名古屋の歴史」は地形から
http://atsutajin.seesaa.net/article/392938818.html
尾張の斯波氏が、すごい人だった件・・織田信長のルーツ
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清須越・名古屋城築城・尾張徳川家
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名古屋史的定点観測:広小路・栄界隈
http://atsutajin.seesaa.net/article/403995218.html
名古屋史的定点観測:金山界隈(1)・・総論
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名古屋史的定点観測:金山界隈(3)・・波寄界隈
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名古屋史的定点観測:金山界隈(4)・・東海道本線貨物支線
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名古屋史的定点観測:千種村(今池)
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のぼうの城、成田長親、大光院(大須)、松平忠吉、明嶺理察
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伏見通や桜通が、戦前まで狭かった件
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鈴鹿市誕生の背景
http://suzuka666.seesaa.net/article/394736858.html
古代から中世の三重県北中部
http://suzuka666.seesaa.net/article/312895302.html
三重県の人が映画「清須会議」を100倍楽しむ方法
http://suzuka666.seesaa.net/article/380648772.html
藤枝と鈴鹿、ふたつの白子町
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宮崎市皇宮神社で「宮崎」を見た?
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