3000年01月01日

熱田人モードへようこそ

当初、ビジネスモードと区別する意味で、スポーツや旅行ネタを、こちらで取り上げていましたが、2014年以降、愛知県や故郷の三重県の「町の歴史」に興味が沸いています。

「それを子供の頃に知っていれば、もっと日本史が楽しかっただろうに」「もっと街に誇りを持てただろうに」と、思える情報と日々出会います。好き嫌いの問題ではなく「日本史」は、中学では必須です。各地の子供たちが、自分の町の歴史をきっかけに日本史に興味を抱き、自分の町に誇りを持てるような「伝え方」「町歴教育」を模索しています。

*モータースポーツ、故郷の三重県・鈴鹿ネタは、「名古屋発、鈴鹿便り」で。
*金融・経済・時事ネタなどは、「rokutaのつぶやき」で。
*フェイスブックで、にわか歴史ファン・郷土愛好家「熱田人三六」のページを立ち上げました。

*なぜ、三六なのか?・・織田信長の三男:信孝の幼名が三七。同じではおこがましいので、ひとつ下げて三六。三七は尾張の熱田で生まれ、信長による伊勢征伐に伴い、私の故郷三重県鈴鹿市の神戸城主に。本能寺の変で信長亡きあと、後継候補の最有力武将だったが、秀吉との争いに敗れ、知多の野間で自決。


*2013年現在、サッカーJ1J2全40チームのホームゲームは視察済み。「サッカー」を見に行くのではなく、サッカーを通して町を元気にしようと模索する、その「町」を見に行きます。資金力でカテゴリーを上げてゆくチームには関心ありません。サッカー好きでなくても、多くの人が日本代表を応援します。自分の町に、応援するチームが存在することがどれだけ幸せなことか。特に、昇格直後のオープニングゲームの観戦が好きです。また、初めてその町を訪れる人間を(現地だけでなく旅行計画の段階で)どうやって導いてくれるのか?にも、興味があります。

*理屈抜きに好きなのは、アメフトです。アメリカは、人口は日本の3倍近く、国土は日本の30倍近くありますが、そのアメリカで、何十年にも渡って50%近い視聴率を維持し、歴代テレビ視聴率上位10の内、スーパーボウルが8を占めるほど絶大な人気を誇ります。そのアメフトの面白さも伝えていければと思います。


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2018年08月14日

2018年9月15日(土)新栄のおいたち講座

愛知県庁が広小路に.JPG

明治10年、愛知県庁が広小路のつきあたり(現在の中日ビルや明治安田生命ビルの辺り)に建てられました。このあと、どのように新栄が発展したのでしょうか?
明治・戦前・戦後の地図を読み解きながら、新栄の生い立ちを学ぶ講座です。

2018年9月15日(土) 13:30〜15:00
会場:賢隆山久遠寺(名古屋市中区新栄一丁目4ー6)
講師:熱田三六(郷土愛好家)
料金:資料代500円

アクセス.JPG

参加ご希望の方は、フェイスブック・ツイッターなど、何らかの方法で、お名前・連絡先を教えてください。


フェイズブックのイベントページ
https://www.facebook.com/events/1968556546511640/
フェイスブック「熱田三六」ページ
https://www.facebook.com/atsutajin/
ツイッター「熱田三六」
https://twitter.com/atsutajin

posted by 熱田人 at 15:39| Comment(0) | 名古屋の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年06月12日

織田信長の命日に、信長ゆかりの史跡を散歩してみた・・(大須・橘)

天正10年6月2日、本能寺の変。つまり、織田信長の命日です。さて、2018年6月2日は土曜日ということもあり、信長の命日に信長ゆかりの史跡を散歩しました。
信長.jpg
織田信長は、生涯の4割(20歳くらいまで)を那古野で過ごしたわけですが、その活動範囲は、現在の三の丸から名古屋城にわたるエリアが中心だったと思われます。実際に足を踏み入れたであろう場所については、また機会を改めたいと思います。今回の散歩ルートの多くは「信長ゆかり・因縁」の場所です。今回のルートは以下の通りです。まずは、前半です。
行程1.JPG

古渡城址(東別院・下茶屋公園)
天文7年(1538年)織田信長の父:織田信秀が今川氏から旧那古野城を奪い、那古野は織田氏の支配下に入ります。*時期は諸説あり。その数年後、旧那古野城を信長に任せ、自らは、古渡城を建立。信長は、ここ古渡城で元服し、信長の弟や妹の何人かは、ここで生まれたでしょう。めーてれ北側の下茶屋公園の池(右の画像↓)は、古渡城の堀の一部を残したもの・・とのこと。今回の散歩ルートの中で、織田信長が実際に足を踏み入れたであろう、数少ないポイントです。
古渡城 (1).JPG 古渡城 (2).JPG 下茶屋公園2.JPG
*古渡城址の石碑は、東別院内にあります。

江戸時代後期に描かれた尾張名所図会には「信長公手植えの松」、現在の下茶屋公園のあたりに「古渡古城天守臺址」などの記載があります。
名所図会(東別院.JPG

東別院(真宗大谷派名古屋別院)
織田信秀は、古渡城から末森城に移り、古渡城は廃城になっていました。時は流れ、戦国時代末期、いよいよ本願寺11世:顕如が信長との和解に至ったものの、長男:教如が顕如の遺言に従わなかったため、本願寺の後継は、三男の准如に。秀吉の天下においては、教如は排除されたのですが、徳川家康の時代になり、本願寺の勢力を分断させるためか(?)、1603年、現在のJR京都駅の北に東本願寺を認めました。そして、名古屋には、清須越から遅れること80年、1690年、尾張徳川2代藩主:徳川光友が古渡城の跡地を寄進し、ここに名古屋御坊が建立されました。ちなみに、和平交渉が進んでいたころ、本願寺の本拠は石山本願寺であり、現在の大阪城周辺だったようです。
東別院 (1).JPG 東別院 (2).JPG
真宗大谷派名古屋別院(東別院)年表(ウィキペディアより)
元禄4年(1691年)尾張徳川2代藩主:光友、古渡城跡地を名古屋御坊建設地として寄進
明治4年(1871年)名古屋本願寺に改称
明治6年(1873年)名古屋管刹に改称
明治9年(1876年)名古屋別院に改称

長栄寺
現地には羅塚の案内しかないので「なごや歴史探検」アプリより・・
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長栄寺は、寺伝によれば、もと中島郡萩園町にあり、天平13年(741年)に建立された国分寺で、行基作の薬師如来を安置、弘仁年中(810〜823)に空海上人が十一面観世音菩薩を安置した。江戸時代初期の清須越の際には南寺町矢場町へ移り(1682)、二代光友公の命を受け、1683年に現地に移りました。本堂前には、俳文集「鶉衣(うずらころも)」で知られる江戸時代の俳人横井也有(よこいやゆう)をしのぶ羅塚(らづか)があります。また、寺務所入り口には、禅寺などで食事の合図に木槌で叩き鳴らす魚鼓(ぎょこ)が釣られています。境内には市の保存樹のイチョウがあり「仏け銀杏」と呼ばれています。
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長栄寺・山門.JPG 長栄寺.JPG
ただし、ウィキペディア「尾張国分寺」によりますと・・「日本紀略」元慶8年(884年)8月26日条では、尾張国分寺が焼失し、その機能を愛智郡定額寺の願興寺(中区の尾張元興寺跡か)に移したと見える・・とされていますので、長栄寺の元が国分寺だったのか否か、引き続き課題としたいと思います。

さて、長栄寺は織田信長と直接の関係はありませんが、もともと現在の稲沢市にあったお寺を、文禄年間(1592年〜1596年)、信秀の妹(信長のおば=長栄寺殿)が清須に再建し、清須越で矢場町(現在の若宮大通)に移され、1682年、尾張徳川2代藩主:徳川光友が現在の橘に移転したもの・・と聞いています。「信長のおば」は大勢いますが、小林城の初代城主:牧長義の後妻さんであり「長栄寺殿」と称されているのは、長栄寺を建立した方だからではないか・・と推測しています。また、当初、矢場町に置かれたのは、思い出深い小林城の近くに・・との配慮からではないかと推測しています。また、その後、現在の橘に移転したのは、その地に「矢場」ができたからではないか・・と推測しています。長栄寺殿のお墓は、小林城址に現存しています。*詳しくは、後半「小林城址」をご参照ください。

日置神社
社伝によりますと、桶狭間の戦いに向かう途中、信長が、ここに立ち寄ったとのこと。
日置神社.JPG 日置神社2.JPG

西別院(本願寺名古屋別院)
もとは、願証寺。戦国時代、本願寺8世:蓮如は27人の子供(13男14女)があり、六男:蓮淳が伊勢長島に願証寺を建立(諸説あり)。
「一向一揆」といえば、織田信長による宗教弾圧のような印象をもっていましたが、こと長島一向一揆については、長島願証寺が先制攻撃を仕掛け、信長の弟:信興を討死させました。信長は、倍返し・・とばかりに長島一向一揆を鎮圧し、願証寺も焼き払われましたが、信長亡き後、清洲城主となった織田信雄に許され、清洲に願証寺を再建。その後、清須越しで現在地に。清須越の際、徳川家康は浄土真宗を除外する意向もあったようですが、実際には、南寺町の最南端に置かれました。同じころ(清須越と同じ慶長年間)、桑名にも願証寺を再建され、名古屋の願証寺は、桑名願証寺の通寺に。その後、桑名願証寺は真宗高田派に転身しましたが、名古屋願証寺は本願寺派に留まったため、明治9年、名古屋の願証寺を本願寺名古屋別院(通称:西別院)に。
西別院.JPG 西別院:鐘楼.JPG 西別院:梅昌院墓.JPG
この地は、もともと二子山古墳があった場所です。昭和に入り、西別院は戦災を受けたため、この地を売却し、民間の手に渡り大須球場としてプロ野球が開催されたそうです。二子山古墳を内野スタンド代わりにして観戦する様子が写真(↓)に残っていますが、詳しくは、機会を改めて取り上げたいと思います。戦災を免れた鐘楼(中央の画像↑)は、尾張徳川3代藩主:徳川綱誠の側室:梅昌院が寄進したもので、その横には、梅昌院のお墓(右の画像↑)もあります。ちなみに、綱誠には13人の側室があり、梅昌院は7人の子供を出産しましたが、全員3歳までに早世しました。
大須球場 (大須レトロ.JPG

天寧寺
室町時代後期に蒼空隆公が清洲城下に開創。当初は円徳院。慶長16年(1611年)、清洲越により現在地に。元文2年(1737年)、宗春の子・竜千代が夭逝し「円徳院」となったため、天寧寺に。*三宝荒神・・本堂隣接の三宝殿に伝行基作の三宝荒神。信長が我が子の成長を祈願した故事に因んだ「守鶏絵馬」の奉納。
天寧寺.JPG 天寧寺:三宝大荒神.JPG


後半です。
行程2.JPG

信長公通?
本町通の一本東の路地を北に向かうと大須公園に突き当たります。「大須レトロ」によりますと、昭和30年、この道を「信長公通」とし祝賀イベントが行われた・・との名古屋タイムズの記事が紹介されています。しかし、地元の方々に聞いたところ、そのことを知っている方とは、現時点では、ひとりもお会いしておりません。
信長公通.JPG 信長公通 (大須レトロ.JPG

総見寺
大須公園の北東にあるのが総見寺。織田信長の戒名:総見院から命名されたのでしょう。
総見寺.JPG 総見寺 (1).JPG 総見寺 (2).JPG
教育委員会の案内板によりますと「景陽山と号し、臨済宗。はじめ伊勢国大島村にあって西明寺といったが、天正年中(1573〜)織田信雄が、父信長の菩提のため清須に移し、僧忠嶽を開山として今の寺号に改めた。慶長16年(1611)清須からこの地へ移建した。寺宝に信長公ゆかりのものが多く、織田信長公画像はじめ九点が県指定文化財である。なお、明治4年(1871)ここでわが国初の博覧小会が開かれた。」

また、ウィキペディアによりますと・・「初めは伊勢国大島村(現在の三重県川越町)に西明寺という講寺。1332年(元弘2年、正慶元年)虎關師錬が景陽山神賛寺と改め後醍醐天皇の勅により官寺となり、後に伊勢国安國寺となった。天正の頃、廃寺になりかかっていたのを織田信雄が父の菩提を弔うために清洲北市場(清須市一場)に移し総見寺と改めた。清洲越しにより名古屋南寺町に。虎關は東福寺派だったので、改めて忠嶽を開山に。1630年(寛永7年)3月、方丈が消失したが、1637年(寛永14年)秋、徳川義直が再建。」

さて、総見寺の山門は、普段は閉鎖されていますが、毎年6月2日のみ、織田信長大法要が行われるため開放されます。かといって、檀信徒さん以外の者が入っていいものか否か、確証が取れていないので、参加者には、立ち寄る寺社のひとつとして列挙するに留めていました。この日、私たちが到着したとき、ちょうど大法要の読経が聞こえていましたが、静かに、信長公の墓石に手を合わせることができました。

万松寺
天文9年(1540年)尾張一円を領していた古渡城主:織田信秀公が、織田家の菩提寺として開基。現在の丸の内2丁目周辺にありましたが、清須越で現在地に。織田信長父:信秀の葬儀が執り行われた際、信長が抹香を投げつけたという逸話は、丸の内時代のものです。
万松寺 (1).JPG 万松寺参道.JPG 万松寺 (3).JPG
ちなみに、江戸後期に描かれた尾張名所図会「万松寺」(中央の画像↑)には、参道が描かれていますが、現在、万松寺ビルの1階に、その参道が残っています(右の画像↑)。茶目っ気といいますか・・

小林城址(現在、清浄寺・矢場地蔵)
地下アイドル専用のライブハウスと隣接している矢場地蔵・清浄寺。1547年、織田信秀が古渡城から末森城(現在の千種区:城山八幡)に移ると、若い信長が治める那古野城のみとなってしまうため(?)、川村北城から牧長義を呼び寄せ、現在の矢場町に小林城を建立。初代城主:牧長義の後妻さんとして、織田信秀の妹(後の長栄寺殿)が嫁ぎ、2代目城主:牧長清には、織田信長の妹が正室となり、織田氏と牧氏は、2代続けて義兄弟となりました。
矢場地蔵.JPG 小林城.JPG 小林城主の墓.JPG
現在の大須2〜3丁目には、清須越の前から鎮座する神社が3社(春日神社、富士浅間神社、三輪神社)ありますが、3社とも、2代目小林城主:牧長清との関りが記録されているため、現在の大須全域など相当広範囲で支配されていたことが予想されます。1554年、織田信長が那古野から清洲に移ったあとも、牧氏は小林村に残り、1570年、長清の死とともに、廃城となったようです。その後、牧氏の家督は、長義の次男:長正の子孫が引き継ぎ、現在に至っています。小林城の址地は、尾張新陰流の柳生氏が住居とし、1701年、清浄寺になっています。 *右の画像(↑)は、初代小林城主、2代目城主の夫妻の墓です。

政秀寺
天文22年(1553年)織田信長が、自分の素行不良を嘆いて諌死(かんし)した平手政秀の菩提を弔うため、小牧山の南、政秀の領地小木(こき)村に創建し、沢彦(たくげん)和尚を開山とした。寺は天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いで焼失、その翌年清須に再興され、慶長15年(1610年)清須越で現在地に移建された。本尊は木造十一面観音菩薩坐像である。政秀の墓はかつて本寺にあったが、今は、平和公園政秀寺墓域に移されている。
政秀寺.JPG 政秀寺2.JPG 政秀寺3.JPG




以上、お疲れ様でした。

posted by 熱田人 at 16:47| Comment(0) | 名古屋の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月17日

日大アメフト部内田監督の雲隠れ事件について

去る5月6日に行われたアメリカンフットボール関西学院vs日本大で発生した悪質ファウル事件が、連日、メディアを賑わせていますが・・

私の中での、赤vs青
私がアメフトに触れた1980年、日本大は篠竹監督の下、憎らしいほどの強さを誇っていました。私は、大学を卒業し、神奈川に住んでいた3年間、ほとんどの週末、駒澤まで足を運び、あこがれの日大の試合を生で観戦し、幸せな日々を送りました。片や、関西学院は、関西学生リーグで33連覇という、とてつもない強さ。

過去72回の甲子園ボウルのうち、なんと29回が、赤(日大)vs青(関西学院)なのです。

関東では、法政大や早稲田大の台頭により、日大は、なかなか甲子園まで届かない時代が続きましたが、昨年末の甲子園ボウルで関西学院を倒し、なんと27年ぶりに日本一に返り咲いたのです。私の人生の大半、楽しみを与え続けてくれた学生アメフトですが・・

メディアに「連日」取り上げられること・・
報道番組、情報番組の構成を考える人たちにとって、「連日」取り上げることができるネタは、これほどありがたいものはありません。それを提供しているのが、内田監督であり、学校法人日本大学です。

今回の件で、監督の指示があったにせよ、なかったにせよ、内田監督が出てきて「真実」を語り、謝罪すれば、その時点で、テレビに取り上げられることは、絶対にありません。

悲しいかな、アメフトの世界から、悪質な反則は、なくなりません。問題は、その後の対応です。内田監督は、試合直後のインタビューを最後に、かれこれ10日以上、一切、表に出てきません。

試合後の内田監督のコメント
試合終了後のコメントの中で、内田監督が、あのプレーを容認するような発言がありましたが、推定無罪の原則から内田監督を擁護しますと・・あのコメントの時点では、内田監督は、問題のシーンを見ていなかった可能性もあります。プレーと関係ない箇所でしたから。実際に目撃していたら、どういうコメントを出されたか・・は、わかりません。

私たちも冷静に
私を含め、現地に居合わせた一部の人を除いて、問題のシーンは、事後に、しかも、「そういうことがあった」という擦り込みの上で見ています。ましてや、テレビでは、最初のプレーの数秒間のみ流し続けますから、事実以上に卑劣さを浮き上がらされているかと思います。ひょっとしたら、日ごろの彼を知っていたら、もう少し異なる感情で見るかもしれません。それは、わかりません。

当該選手本人の責任も問われますが・・
もちろん、やってしまった彼は批判されるべきです。しかし、10日以上経過し、もう充分に社会的制裁も受けていますし、不幸中の幸いで、被害者となった関西学院大の選手も最悪の診断結果ではなさそうですし、そろそろ未来に目を向けてもいいのではないかと思います。

なお、選手の個人情報を晒す行為は、今回一連の出来事の中で、もっとも愚かな行為であり、然るべき処分が下されるよう望みます。

監督の指示があったかなかったか?
それは、当事者にしかわかりません。
ここで、アメフトという競技の特性を考えてみましょう。

サッカー・ラグビーは、前後半40〜45分、基本的にプレーが流れ続けますが、アメフトは、1プレーごとに止まり、原則40秒以内に次のプレーを開始する・・というルールになっています。よって、試合展開や相手の状況を見ながら、次の手を考える時間が与えられており、アメフトは、準備と適応のスポーツ・・ということができます。しかし、かといって、選手同士で話し合うような時間は、あまりなく、監督・ヘッドコーチが瞬時に善後策を判断し、次の指示を出します。選手の裁量・瞬時の判断もなくはないですが、その裁量の幅は、極めて狭いものです。

つまり、指導者・管理者の資質が、もっとも試合の勝敗に影響を与えるスポーツであると思います。よって、監督・ヘッドコーチは、フィールドにおける当該チームのすべてに責任を負いますし、選手は、一糸乱れずその指示を遂行することが求められます。

だからこそ、監督・ヘッドコーチの指示は絶対的なもので、それに逆らうことは、その組織に適合しない存在です。だからこそ、監督・ヘッドコーチと選手の間には、絶対的な信頼関係が求められるわけです。

個人の判断で反則は繰り返されるか?
これも、わかりません。

しかし、重大な反則には、大きなペナルティが与えられます。パーソナルファウルは15ヤードの罰退。地方学生リーグだと、1試合の総獲得距離が200ヤードに届かないケースも多々ありますから、ひとりの反則で15ヤードの罰退、しかも、それが2回、3回、30ヤード、45ヤードの罰退となると、当然、勝利から遠ざかります。競り合った試合では、それが直接の原因になります。

よって、審判から退場を命じられるまでもなく、重大な反則を繰り返す選手がいたら、監督・コーチが当該選手をベンチに下げ、頭を冷やすよう措置を取るのが普通だと思います。

監督の「雲隠れ」は、日大の教育方針に合致しているのか?
誰でもミスはあります。人様を裁くような資格も権限もありません。しかし、ミスをした場合、どう向き合うか? が、肝要であることは、人生経験の長短はあっても、誰もがわかることだと思うのですが・・現状、日本最大の教育機関は、その教育方針に沿って運営されているのでしょうか。

2万人の日大OBの社長さんは?
日本大は日本最大のマンモス校ということもあり、日本国内の2万人もの社長が日大出身者であり、最大の属性を形成しているそうです。その社長さんたち、今回の、日大の「責任者の雲隠れ」について、どのような印象をお持ちなのでしょうか?

やはり、根が深い・・
内田監督は日本大学の常務理事であり、学校法人日本大学の実質NO2であるとのこと。また、ウィキペディアによると、理事長の田中英壽氏とは長年にわたり親交が深かったとのこと。となると、2017年度の学生日本一を手土産に、次期理事長か次期学長・・という話があっても、不思議ではありません。


さて、内田氏は、これまでの自身の功績を全否定なさるのか?

逃げられるとこまで逃げてみる? 脱走した受刑者の真似ですか?

日本大学だけでなく、日本の学生たち、子供たち、未来の学生たちに、どのような手本を見せてくれるのか? 注意深く見守っていきたいと思います。

赤と青の友情が、再び戻ることを、地方より、信じてやみません。













posted by 熱田人 at 16:23| Comment(0) | アメフト:全般 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月12日

名古屋・長久寺の旧寺領を歩いてみた

2018年3月10日(土)、東区早咲きサクライベントに便乗して、名古屋でもっとも早いサクラを見ながら、松平忠吉ゆかりの史跡めぐりの散歩・・というイベントを実施しました。
*名古屋でもっとも早い桜を見ながら、松平忠吉ゆかりの史跡を散歩してみた
http://atsutajin.seesaa.net/article/457222681.html

しかし、当初、長久寺は、立ち寄るだけの予定でしたが、旧寺領を調べてゆくうちに、周辺の高低差、東区と北区の境界線が興味深いため、ブラタモリの真似事をやってみました。それまでの散歩と、少しテイストが異なりますので、別枠にしたいと思います。

まず、長久寺の旧寺領について、名古屋・時代MAPを参照しました。
・長久寺旧領 名古屋時代MAP.JPG
白壁交差点から尼ケ坂に向かう南北に走る道は、戦後作られたようで、一本東の片山神社の参道まで、その寺領だったようです。北は、尼ケ坂公園の手前まで。南は、善福院まで。西は??

このMAPによると、長久寺公園は、東半分が長久寺の寺領で、西半分は武家屋敷になっています。誤差の範囲でしょうか。
・長久寺公園.JPG

上記の合わせ図によると、金城学院のテニスコートは武家屋敷、その北側の校舎部分が寺領。寺領はそのまま西にまっすぐ伸びています。しかし、その北側の境界が、現在の地図ではわかりません。そこで、デジタル標高図を合わせてみたら・・
・長久寺旧領標高図.JPG
寺領とガケが一致するようです。そして、この崖が、現在、東区と北区の境界線になっています。

ということで、このようなルートを歩いてみました。高低差10mを上り下りします。
・長久寺旧領散歩ルート.JPG

南に善福院が現存していますが、長久寺領内だったようで、同じ真言宗智山派とのことですから長久寺の塔頭(たっちゅう)だったのでしょうか。
・善福院.JPG
長久寺公園の東の高台(↓)も気になります。見づらいですが、狛犬もあります。
・狛犬 (2).JPG ・狛犬 (1).JPG

そして、いよいよ・・

金城中学から大杉南公園(北西)に向かって下る坂は、戦後、作られたようです。
・南側:東から.JPG

その途中、左右にガケ。特に左手(西側)のガケは、高低差を確認しやすいです。
・南側境界(西.JPG
この崖までが寺領であり東区。崖の下は、現在は北区ですが、江戸時代、武家屋敷はなかったようで、原野だったのでしょうか。明治時代の地図では、畑のようで、民家らしきものは確認できません。
・明治23年頃.JPG

今、下ってきた坂を見上げてみます。
・南側:西から.JPG

坂の底は北区。標高6m。次に、右手に崖を見ながら北東に向かいます。
・西からガケを見る (2).JPG ・西からガケを見る (1).JPG

そして、北側の太い道に出ます。
・北側:西から.JPG
この太い坂道は、長久寺公園の銘板によると、戦前まで、非常に細い道だったようです。
長久寺公園銘板:太い道(現在.JPG 長久寺公園銘板:太い道(戦前.JPG
ここから、再び、標高16.8mの芳野二丁目交差点まで10mの高低差を登ります。

地図では、太い道の北側のマンションは東区、その左の民家は北区のようですが・・地元の同行者によりますと、このマンション、住民は東区と北区が混在しているとのことです。
・北側:境界.JPG

そして、坂を上り切り、振り返ると、こんな風景です。
・北側:東から.JPG
再び、標高17mの世界に戻り、長久寺に入ります。



名古屋城から清水口、長久寺、徳川園を結ぶ名古屋台地の北端は、矢田川による河岸段丘だそうです。
・名古屋台地北側.JPG



ところで、長久寺周辺の友人の会社は、長久寺に地代を払っているそうですが、金城中学は、ウィキペディアによると、「1955年(昭和30年)、東区長久寺町の名古屋学院の敷地と校舎を購入し中学校を移転」とのことで、今は、おそらく、自前の土地なのでしょう。

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2018年02月28日

名古屋でもっとも早い桜を見ながら、松平忠吉ゆかりの史跡を散歩してみた

2018年3月10日(土)、東区の早咲きサクライベントに便乗して、地下鉄高岳駅から名鉄尼ケ坂駅まで総距離2キロくらい、早咲きサクラの並木道を歩きながら、松平忠吉ゆかりの史跡などを散歩しました。
2018022817040000.jpg ルート.JPG

10時:地下鉄高岳駅1番出口集合
・高岳駅1番出口 (1).JPG
高岳(たかおか)といえば、デニーズ。その前を北上し・・
・高岳駅1番出口 (2).JPG
デニーズのすぐ北、ひとつ目の角を右折すると、高岳院です
1高岳院 (1).JPG 1高岳院 (2).JPG
徳川家康の八男:仙千代は、実子がいない平岩親吉の養子になり、大坂、甲斐など、平岩親吉の赴任先に同行しました。しかし、甲斐にて4才で早世。その死を悲しんだ家康が、甲斐にあった教安寺を清須に移して、仙千代の戒名である「高岳院」と改め、慶長16年(1611年)、清洲から現在地に。ちなみに、現在、甲府市に教安寺が現存しています。そちらについても、改めて詳しく調べたいと思います。

そして、貞祖院は、高岳院の北東300mです。
・ (1)貞祖院.JPG 2貞祖院-2.JPG
教育委員会の案内板によりますと・・松平忠吉の義母:於ミツが忠吉の位牌所を清須に建立し、当初、玄白寺と称した。於ミツの没後、その戒名をとって貞祖院と称する。17世紀半ばまでに現在地に。「義母」というと、忠吉の正室の母=井伊直政の正室ということになりますが、正確には、忠吉が東条松平家に養子にはいった際の養母とのことです。

南北を走るオオカンサクラの並木道は、こんな様子です。
・ (5)サクラ並木.JPG

二葉館は、今回は外観のみ
・ (6).JPG

撞木館に到着。平安桜のライブまで、館内を見学しました。
20180304 (1).JPG

11時〜撞木館で平安桜のライブ鑑賞
・ (13)平安桜.JPG ・ (3).JPG

12時くらいまで撞木館・山吹谷公園で自由時間。各自腹ごしらえ
・ (5).JPG ・ (3).JPG

12時すぎ:山吹谷公園を出発。金城学院高等学校に近づくと、サクラの開花が進んでいるようです。植えた時期によるものでしょうか。
・ (11).JPG ・ (12).JPG

長久寺は、金城中学の北隣です。
3長久寺 (1).JPG 3長久寺 (2).JPG
清洲城主:松平忠吉が旧領の忍城下で祈願所とした寺を清須に移したもので、慶長15年(1610年)清須越の際、現在地に移されました。忍でも清洲でも、城の北東に位置し鬼門の役割を果たしてきましたが、清須越で、現在の東区芳野(金城中学の北)に移りました。行田市にも長久寺は残っており、2015年に行ってきましたが、非常に立派なお寺でした。
行田:長久寺.JPG

当初、長久寺は立ち寄るだけの予定でしたが、旧寺領を調べると面白いことが判明したため、急きょ、ブラタモリの真似事を加えてみました。
*長久寺の旧寺領を歩いてみた
http://atsutajin.seesaa.net/article/457888811.html

そして、最後に、片山神社
・ (33)片山神社.JPG 4片山神社 (2).JPG
社伝によれば和銅2年(709年)の創建。祭神は安閑天皇、国狭槌尊とのこと。壬申の乱が672年ですから、何か関係があるのでしょうか? それにしても、祭神が安閑天皇って、初めて見ました。どのようなゆかりがあったのでしょうか。

坊ヶ坂を下って・・
・ (35)坊が坂.JPG
13時すぎ:名鉄瀬戸線尼ケ坂駅で、いったん解散。

北区周辺の史跡を追加散歩しました。


久国寺

岡本太郎制作の歓喜の鐘。

そして、清水駅から名鉄瀬戸線で栄に向かい、栄ミナミの早咲きサクライベントに。

さくら餅の無料配布で、もぐもぐタイム。





posted by 熱田人 at 16:21| Comment(0) | 名古屋の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月17日

熱田神宮って、こんなにすごい!

正月3日間の熱田神宮の参拝客は230〜235万人と、全国の神社・仏閣の中で7〜8位にランクされています。不動のトップは、明治神宮で310〜320万人です。
*「山歩きアラカルト」さんのサイトから引用させていただきました。
http://www5e.biglobe.ne.jp/yamamosa/index.html
http://www5e.biglobe.ne.jp/yamamosa/hatumoude.htm

しかし、私は、ひそかに、数年以内に熱田神宮の参拝客が全国トップになると思っています。アクセスは抜群ですし、何より、名古屋で生まれ育った方々ですら、熱田神宮の底力を知らないように思われるからです。つまり、伸びしろが無限にあるからです。
*ただし、昨今、警察庁は、初詣参拝客の公表をしていないようです。

熱田神宮は1900年の歴史が・・
古事記、社伝などによると、1900年の歴史があります。詳しくは、別途。

熱田神宮の起源はヤマトタケル伝説
詳しくは別途。

三種の神器のひとつが熱田神宮に・・
天皇の証である三種の神器は、八咫鏡・八尺瓊勾玉・草薙剣で、鏡は伊勢神宮、勾玉は皇居、そして、剣が熱田神宮にあるとされています。鏡、剣の形代(レプリカ)は皇居にあり、2014年、天皇・皇后両陛下が伊勢神宮に参拝された際は、剣と勾玉を携行されました。詳しくは、別途。

源頼朝は熱田で生まれた
「岡崎市と名古屋市のつながりは徳川家康だけではない!」「河内源氏の栄枯盛衰」をご参照ください。

鎌倉将軍9人のうち8人に熱田神宮大宮司家の血が・・
河内源氏による鎌倉将軍は3代で途絶えましたが、その後も、頼朝の妹によって、熱田神宮大宮司家の血は引き継がれていきました。大河ドラマ「平清盛」を教材にして日本史・名古屋史を学んでみようで簡単に触れていますが、詳しくは、別途。

足利尊氏以下、すべての足利将軍に熱田神宮の血が・・
「岡崎市と名古屋市のつながりは徳川家康だけではない!」で簡単に触れていますが、足利氏については、改めてまとめたいと思います。

第89代:後深草天皇から現在の天皇陛下まで37代すべての天皇に熱田神宮大宮司家の血が・・
これも、頼朝の妹によって、熱田神宮大宮司家の血が歴代天皇に流れています。詳しくは、別途。

熱田神宮は、後醍醐天皇の武臣だった
熱田神宮は、建武の新政、南北朝時代の重要人物である後醍醐天皇から信頼される軍でした。詳しくは、別途。

織田信長が、桶狭間の戦いの前に熱田神宮に立ち寄り、戦後、信長塀を贈った理由
詳しくは、別途。

日光東照宮の創建に、源頼朝、熱田神宮が・・
詳しくは、別途。

明治以降「神宮」の第一号は熱田神宮
現在、日本国内に20以上の「神宮」がありますが、ウィキペディア「神宮」によりますと・・日本書紀で「神宮」と表記されたのは伊勢神宮、石上神宮、(出雲大神宮?)のみで、平安時代に成立した延喜式神名帳で「神宮」と表記されているのは伊勢神宮、鹿島神宮、香取神宮のみです。明治時代に入り、特に天皇家の祖神としての格式がある神社などが「神宮」号を認められることとなり、明治元年、熱田神社から熱田神宮と改められました。


取り急ぎ、項目のみ。






posted by 熱田人 at 13:30| Comment(0) | 名古屋の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月28日

河内源氏の栄枯盛衰

源氏といえば、鎌倉幕府を開いた源頼朝がもっとも有名ですが、つい最近、歴史に興味をもって、いろいろ調べ始めた結果、源頼朝が天下を取るというのは、奇跡以外の何物でもありません。

そもそも源氏とは?平氏とは?・・臣籍降下、皇籍離脱について
時代を問わず、天皇を途切らせることはできませんから、特に、天皇の権力が絶大だった時代は、多くの妻との間に多くの子女を生みました。その結果、天皇の子として生まれながら天皇になれない人が、今より相当多かったようです。そこで、明らかに天皇になれないことが確定すると、順次「姓」を与えて皇室・王室から独立させ、民間人となりました。これが臣籍降下(しんせきこうか)であり、現在の憲法下では、皇籍離脱(こうせきりだつ)と呼ぶそうです。

その代表格が源氏、平氏です。他にも、橘氏、清原氏、高階氏、在原氏など。つまり、源氏も平氏も、天皇の子孫ということです。臣籍降下して源氏になった21家は、嵯峨源氏、仁明源氏、文徳源氏、清和源氏、陽成源氏、光孝源氏、宇多源氏、醍醐源氏、村上源氏、冷泉源氏、花山源氏、三条源氏、後三条源氏、後白河源氏、順徳源氏、後嵯峨源氏、後深草源氏、亀山源氏、後二条源氏、後醍醐源氏、正親町源氏とのことで、中でも、清和天皇の子孫である清和源氏、その中の河内源氏が非常に有名です。

清和源氏と藤原摂関家
第56代清和天皇の第六皇子:貞純皇子の子:経基皇子が臣籍降下し、「源経基(つねもと)」を名乗ったことが清和源氏の始まりです。経基の長男:源満仲(みつなか)は、道長四天王のひとりです。藤原道長(966〜1028)は、西暦1000年をまたいで活躍しましたから、時代を覚えやすいかと思います。

2012年NHK大河ドラマ「平清盛」の中で、源為義(演:小日向文世)が、「わが源氏は、代々摂関家に仕えてきた」という発言が何度かありましたが、それは、道長四天王の一角となった満仲から始まったようです。

清和天皇(850〜881)→貞純親王(873〜916)→経基皇子(=源経基、生年不詳〜961)→源満仲(912〜997)→源頼信(968〜1048)→源頼義(988〜1075)→源義家(1039〜1106)→源義親(?〜1108)→源為義(1096〜1156)→源義朝(1123〜1160)→源頼朝(1147〜1199)と続きます。もちろん、途中、多くの兄弟から枝分かれしました。

中でも河内源氏とは・・
ウィキペディアによりますと・・清和源氏の武士団を摂津国川辺郡多田に最初に形成した源満仲の三男の源頼信を祖とする。頼信の長兄は摂津源氏の祖の源頼光であり、次兄は大和源氏の祖の源頼親。源頼信は、河内国古市郡壷井(現在の羽曳野市壷井)を本拠地とし香呂峰(こうろほう)の館を建て、本拠地が河内国であることから「河内源氏」と呼ばれる・・とのこと。

源頼信(968年〜1048年)
河内源氏の祖となった三男:頼信も、道長四天王に数えられることもあるようですが、1028年、かつて頼信の家人だった平忠常が反乱を起こします。1031年、これを鎮圧したのが、当時、甲斐守だった頼信、その子:頼義の親子でした。この時、頼信は64歳でした。この時点で、源氏>平氏という図式ができあがったようですが・・

源頼義(988年〜1075年)
頼信の嫡男。桓武平氏の棟梁だった平直方は、忠常の乱を平氏内で処理することができず、源氏に擦り寄ることが得策と考え、自分の娘を頼義に嫁がせます。そして、嫡男:義家を始め3人の子供が生まれます。この時点では、源氏と平氏が総力を挙げて敵対する・・という形ではなかったようです。

1051年、源氏に大きな転機が訪れます。前九年の役が勃発。このとき、頼義は64歳で陸奥守に就任します。そして、1062年、頼義75歳のとき、陸奥守の任期満了を迎えますが、陸奥の郡司たちが頼義を強く支持したため、なんと三選することに。そして、激しい攻防の末、前九年の役を鎮圧し、多大な報奨を得ることになりました。

源義家(1039年〜1106年)
河内源氏の繁栄は、まだまだ続きます。大河ドラマ「平清盛」に源義家は登場しませんが「八幡太郎義家」の名は何度も登場します。義家の曾孫:源義朝(演:玉木宏)が関東ですごした際、「曽祖父:義家の威光はすごい」と述べています。

1083年、義家44歳のとき、父:頼義の後任として陸奥守となり、後三年の役に突入します。義家は、これを鎮圧しますが、そのとき、白河天皇は、後三年の役を、個人的な戦争とみなし報奨を出しませんでした。そこで、義家は、自己の財産を関東の豪族に分け与え、このことが、関東の豪族たちの源氏への崇拝を強くした一因となったようです。

源義親(よしちか、?〜1108年)
ここまで、名門の名をほしいままにしてきた河内源氏ですが、義家の長男:義宗(よしむね)が早世すると、次男で対馬守:源義親(よしちか=頼朝の曽祖父)に家督が移るのですが、こともあろうに、この義親が、西国で大暴れしてしまいます。1101年7月7日、義親は、鎮西に於いて大江匡房に告発され、朝廷は義家に義親召還の命を下すのですが、義家が派遣した首藤資通は、翌1102年2月20日、義親と共に義親召問の官吏を殺害。12月28日、朝廷は義親の隠岐配流と資通の投獄を決定するものの、義親は配所には赴かず、逆に、出雲で目代を殺害し官物を強奪。朝廷は、父:義家に追討を命じますが、1106年、義家の四男:義国(足利氏の祖)が、叔父で義家の弟:源義光等と常陸合戦に突入、そんな中、義家は、68歳で亡くなってしまいます。義家の3男:源義忠が家督を継承し、河内源氏の棟梁になるのですが、翌1107年12月19日、隠岐に配流されていた源義親が、今度は、出雲国目代を殺害、ついに、白河法皇は、平正盛(清盛の祖父)に義親の追討を命じました。そして、大河ドラマ「平清盛」で、翌1108年1月29日、平正盛は義親の首を持って京に凱旋します。

ちなみに、常陸合戦を起こした義国は、足利を開墾し、後に、その長男:義重は新田氏の祖となり新田義重と称し、次男:義康は足利氏の祖となり足利義康と称しました。

源義忠→為義→義朝へ・・
義親の弟:義忠が家督を継ぐのですが、義忠は、平正盛の娘を正室に迎えており、平忠盛(=清盛の父)の元服の際には烏帽子親を務め、義忠の「忠」を忠盛に与えるなど、平氏との融和を図っていました。しかし、この義忠も、1109年、叔父(義家の弟)の義光に暗殺されてしまい、源氏長者の座は、消去法で、義親の嫡男である為義に戻ってきました。源氏自ら、これ以上堕ちる余地がない所まで堕ちてしまい、新たに支配層となっていた院としては、摂関家と親しかった源氏を避け、相対的に、平氏の時代が訪れました。

河内源氏の復活・再生と熱田神宮
源為義の嫡男:源義朝は、熱田神宮大宮司:藤原季範の娘:由良御前を正室に迎えます。その前後については、今のところ、「岡崎市と名古屋市のつながりは徳川家康だけではない!・・瀧山寺と熱田神宮」で触れていますので、ご参照ください。

天国から地獄へ・・
1156年、保元の乱では、義朝だけが後白河天皇側につき、父:為義を始め、義朝以外のすべての兄弟は崇徳上皇側につきました。後白河天皇側が勝利し、義朝は、父の処刑を命じられました。

しかし、1160年、平治の乱では、義朝は、クーデター側の中心武力となり、平氏と戦い、完敗しました。敗走中、知多半島の野間で、長田忠致に裏切られ自決。12歳の頼朝は、当然、斬首が予想されたものの、伊豆への流罪に決定しました。

その後、平清盛の世に突き進むのですが、1177年、鹿ケ谷の陰謀も、密告によって事前に失敗。平家の独裁をさらに加速させる結果となりました。

この頃の歴史を知れば知るほど、後に、頼朝が鎌倉幕府を開くなど、奇跡以外の何物でもありません。

源頼朝の生涯を考えてみる
源頼朝は、熱田で生まれ、物心がついた頃には、父:義朝は常盤御前にうつつをぬかし母子家庭。最愛の母は、頼朝が満11歳のとき病死。その8か月後、平治の乱で父も死去。すでに、保元の乱で祖父・親戚を失っており、満12歳で孤児となり、伊豆に流罪となります。平氏討伐の以仁王の勅令を受け取り挙兵するまで20年間、伊豆で隠居生活を送りました。「20年」というのは、後で確定したことであり、伊豆での日々は「余生」のようなものだったことでしょう。のち、鎌倉幕府を開いたあと、上洛のたびに熱田に立ち寄ったかどうか知りませんが、頼朝の生い立ちを考えると、熱田への想いは相当なものだったのではないかと推測します。

源氏による鎌倉幕府は3代で終わる
日本の支配層は、藤原摂関家→皇室・院政→平家と移り、源頼朝が鎌倉幕府を開きますが、武家政権は、まだまだ脆弱で、頼朝を含め、その子:頼家、実朝の3人で、河内源氏による鎌倉将軍は途絶えてしまいます。

どれだけ衰退しても、源氏長者(=源氏の最高権力者)というのは、誰かがなったのですが、南北朝の時代には、村上源氏の北畠親房が源氏長者となったこともあったようです。

足利氏も、熱田神宮の血が・・
源義国の四男:義康が足利氏の祖となった・・と述べましたが、源義康も、熱田神宮から正室を迎えています。大宮司:藤原季範の孫娘を養子に入れたうえで婚姻に至ったようです。足利氏については、また、改めてまとめたいと思います。



posted by 熱田人 at 15:29| Comment(0) | その他の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月26日

大河ドラマ「平清盛」を教材にして日本史・名古屋史を学んでみよう

2012年NHK大河ドラマ「平清盛」は、空前の低視聴率が話題になりました。当時、私は、歴史に関心がなく、大河ドラマを録画するという習慣もありませんでしたから「無」の状態でした。
43 (1).JPG ・平清盛.JPG

しかし、その後、源頼朝が熱田生まれであることや、中区の闇の森八幡が源為朝の勧請によるものであることを知り、なぜ、源氏と熱田神宮がつながったのか? その経緯を調べるうちに、熱田神宮が藤原南家とつながったことがわかり、さらに、その時代背景に興味をいだき、かなり習得しました。そして、ドラマの中で、それらが、どのように描かれていたのか? ということで、ついに2017年1月、レンタルDVDを見つけ、一気に鑑賞しました。

結果、今までの大河ドラマとは別格・別次元の面白さで、未だに余韻に浸っている日々です。

まず、3人の狂人。白河法皇、鳥羽法皇、後白河法皇。
白河.JPG ・鳥羽法皇.JPG ・後白河 (3).JPG 
白河法皇(演:伊東四朗)は第2回で早くも崩御するのですが、死後も、その遺伝子が、ドラマを泥々にして、最後まで、大きな存在感を示します。鳥羽法皇(演:三上博史)は第20回の冒頭で崩御し、保元の乱に突入するきっかけとなります。後半は、平清盛(演:松山ケンイチ)と後白河法皇(演:松田翔太)の駆け引きが、ドラマの軸になっています。
・清盛vs後白河.JPG

栄華を極めた藤原摂関家が衰退し、それまで抑圧されてきた王家(天皇家)・院政に権力が移り、摂関家の娘ではない女性が「帝の母」の座を巡り、争います。
璋子(待賢門院.JPG 得子.JPG 
左:たまこ=待賢門院(演:檀れい)、右:なりこ=美福門院(演:松雪泰子)

さらに、平氏・源氏という武家の社会に移行する、激動の時代が描かれており・・
・清盛vs義朝.JPG

序盤、存在感を示したのは、清盛の父:平忠盛(中井貴一)でした。第16回で亡くなりますが、あまりにも格好よく、残り3分の2、ドラマは成立するのか? という心配すら起こりました。
・忠盛.JPG
ちなみに、清盛、忠盛は桓武平氏の中で、特に三重県を基盤とした伊勢平氏です。津市に「忠盛塚」というバス停もあります。

また、それぞれ定説を逸脱しない範囲で、どろどろの愛憎劇が絡み合い、最高のドラマとして成立しています。

低視聴率の原因を想像してみる
まず、登場人物が多すぎる。特に、平氏は、男子の親族だけで20人。清盛の兄弟なのか?子息なのか?さらに孫なのか? それぞれ、子役→少年期→成人と役者が変わるし、最近、ドラマを見ていないと役者も知らないし、わからなくなってきます。そこで、以下のような演者リストを作って、DVDを止めながら、その人物を確認しながら鑑賞しました。
演者リスト.JPG
ご希望の方にはお譲りしますので、フェイスブック「熱田人三六」ページで検索してお申し付けいただければ幸いです。

また、2012年当時の私のように基本的な知識がゼロだと、受け身になってしまってストーリーを追いかけるのに疲れるのではないかと思います。それらが、低視聴率の原因ではないかと思います。そこで、「平清盛」を楽しむために、ドラマでは描かれない部分も含めて、私なりの見どころをまとめてみました。

いつものことですが、まとまるのを待っていたら永遠にUPできませんので、取り急ぎUPし、随時、加筆・訂正したいと思います。


名古屋目線最大の見所・・源義朝と熱田神宮:由良姫との出会い
第6回放送で、源義朝(演:玉木宏)が関東に遠征に向かう途中、尾張の熱田神宮で、強盗に襲われる大宮司:藤原季範(演:山口良一)を助け、そこで由良姫(演:田中麗奈)と出会い、由良姫は、源義朝に一目ぼれした・・という設定でした。そして、第8回、由良姫が京に移って統子内親王(むねこないしんのう=後の上西門院)に仕えると、再三、義朝の父:為義(演:小日向文世)の元を訪れ、自身と朝廷とのつながりをアピールしました。そして、第12回、東国から戻った義朝も、源氏復活の千載一遇のチャンスと捉え、二人は結ばれたようです。
由良と義朝.JPG 藤原季範.JPG 由良と義朝2.JPG
そして、第12回のエンディングでは、鬼武者(後の源頼朝)が誕生しました。後に、由良御前の縁で、頼朝も統子内親王に仕えることになり、皇室とのつながりが、源氏の未来に大きな影響を与えることになります。

源氏が「復活」しなければならないほど落ちぶれていた経緯については、以下をご参照ください。
*河内源氏の栄枯盛衰
http://atsutajin.seesaa.net/article/450304710.html
また、熱田神宮が皇室との関係を深めた背景、大宮司職が藤原南家に移った背景などについては、以下をご参照ください。
*岡崎市と名古屋市のつながりは徳川家康だけではない!・・瀧山寺と熱田神宮
http://atsutajin.seesaa.net/article/446603689.html


藤原摂関家の栄枯盛衰を予習してみる
ドラマを見る前に、まず、藤原摂関家について予習してみましょう。藤原氏のスタートは、大化の改新(645年)の中臣鎌足です。鎌足が亡くなる前日、天智天皇から藤原姓を賜り、鎌足の子:不比等から、藤原姓を名乗りました。

藤原不比等は、4人の子供と力を合わせ、天智天皇の下、政治改革に取り組みます。同時に「自分の娘を天皇に嫁がせ、男子を生んで、その子が天皇となる」つまり「自らが天皇の祖父になる」ことにより、権勢をふるいました。ちなみに、このスキームは、大化の改新の前、蘇我氏が、すでに確立させていました。

不比等なき後、不比等の長男:武智麻呂(南家)の次男:仲麻呂(恵美押勝)が「仲麻呂の乱(764年)」を起こし斬首されると、北家に権力が移ります。

そして、866年、藤原不比等の孫の曾孫にあたる北家:藤原良房が、応天門の変で大納言:伴善男を失脚させ、皇族以外で初めて摂政となり、さらに、良房亡き後、その養子の基経が関白に就任し、基経の子:時平・忠平の兄弟に引き継がれます。藤原時平は、菅原道真との確執で有名です。その後、摂関家は、忠平の次男:師輔の子孫に引き継がれていきました。

そして、師輔の三男:藤原兼家、兼家の五男:道長の代になると、親子2代で5人もの天皇の外祖父になり、摂関家の権勢がピークを迎えます。しかし、兼家、道長で運を使い果たした反動は、道長の子の代に押し寄せ、道長の長男:頼通、権力争いした五男:教通も、それぞれ82歳、76歳という長寿にもかかわらず、特に、頼通は50年も関白を続けて政治的には安定していたものの天皇の外祖父になることができず、摂関家の権勢は、徐々に衰退して行きます。そして・・

1068年、藤原摂関家を祖父としない後三条天皇が即位。
1073年、白河天皇が20歳で即位。翌1074年から1075年にかけて、藤原頼通、教通が相次いで亡くなると、藤原摂関家の権勢は消え失せ「院政」の時代に向けて動き始めます。

1117年12月13日、白河法皇の養女:藤原璋子(たまこ、後の待賢門院:たいけんもんいん、演:檀れい)が入内し、大河ドラマ「平清盛」は、このあたりから始まります。この頃、白河法皇(演:伊東四朗)は64歳になっています。

藤原忠通vs頼長
藤原道長以降、摂関家に大きなミスがあったわけではありませんが、藤原氏の影響を受けない白河法皇の権勢が強すぎて、相対的に藤原摂関家は力を失っていました。ドラマの序盤では、藤原道長の孫の孫にあたる忠実(ただざね、演:國村隼)は39歳。長男の忠通(ただみち、演:堀部亮)は20歳、次男:頼長(よりなが、演:山本耕史)は、まだ生まれていません。
・藤原忠実.JPG ・藤原忠通.JPG ・藤原頼長 (1).JPG
放送時、兄:忠通を演じた堀部圭亮さんは46歳、弟:頼長を演じた山本耕史さんは35歳でしたが、本当の忠通と頼長は、実は23歳も離れていました。その後、忠実は、藤氏長者(藤原氏の最高権力者)を忠通に譲り、忠通は、25歳で鳥羽天皇の関白に就任します。しかし、なかなか男子に恵まれなかったため、29歳のとき、当時6歳だった弟:頼長と養子縁組を行い、摂関家をつなげてゆこうとしていました。

しかし、1143年、忠通46歳のとき、ついに長男:基実(もとざね、演:村杉蝉之介)が誕生、さらに、翌1144年、次男:基房(もとふさ、演:細川茂樹)が誕生。その後も、堰を切ったように男子が生まれ、ついに、1149年、六男:兼実(ドラマの設定は三男、かねざね、演:相島一之)が誕生します。
・藤原基実.JPG ・藤原基房.JPG ・藤原兼実.JPG
こうなると、忠通は自分の子孫に摂関家を継がせたいと思うようになり、頼長と骨肉の争いに突入します。そして、第15回、近衛天皇が元服すると、頼長は、養女・多子(まさるこ?)を入内させ、片や忠通も、藤原伊通の娘・呈子(しめこ)を養女にして入内させるなど、摂関家の兄弟で、近衛天皇の世継ぎ争いに突入します。ちなみに、第15回、後の常盤御前(演:武井咲)が、京の町で公家に連れ去られそうになるシーンがありますが、これは、呈子(しめこ)の入内に伴い、京の町中から美人を集めていたのです。

藤原忠実は、頼長を贔屓したのか?
父:忠実は、頼長の政治運営能力を評価したのか?なぜか、頼長をひいきし、第16話の冒頭、1150年、源為義(演:小日向文世)に命じ、忠通(当時53歳)の正邸・東三条殿を襲わせ、藤氏長者の証である「朱器台盤」を接収し、忠通から藤氏長者の地位を剥奪して頼長(当時30歳)に与え、忠通と義絶してしまいます。そして、同じ第16回、頼長は内覧となり、忠通と同格まで昇進しました。
・朱器台盤.JPG
その結果、摂関家内の権力は、急速に頼長に移り、石田三成を彷彿させるような政治手腕を発揮します。(ちなみに、頼長を演じた山本耕史さんは、2016年大河ドラマ「真田丸」で石田三成を演じました) ただ、あまりにも真っすぐな性格のため、周囲の反感を招き、石田三成のように、だんだん孤立してゆきます。

ドラマでは、父:忠実が長男:忠通に対して、「好きか嫌いか?」といえば嫌いだったとしても、藤氏長者の座を強引に奪い取るほど忠通を嫌っていたか?頼長を好んでいたか?というと、そこまで描写されていなかったような気がします。むしろ、第18回で、忠実が頼長の政治手法に「やりすぎ」と苦言を呈したのに対し、頼長が「私のまつりごとを解さぬ愚人に貸す耳はない。今度口出ししたら、父上といえども許さない」とのやり取りや、第22回、頼長が保元の乱で瀕死の状態で忠実を頼ってきた際、面会すら応じなかったことを考えると、むしろ、一貫して忠通を好んでいたような印象すらあります。ちょっともやもやした部分です。

そんなこんなの状況の中、第18回、忠通の養女:呈子(しめこ)は近衛天皇の子を出産できずに内裏に戻り、結局、近衛天皇は、皇子がいないまま17歳で崩御。後継には、崇徳上皇の第一皇子:重仁親王が有力でしたが、まさかの後白河天皇(演:松田翔太)が誕生します。崇徳上皇にとって、天皇が弟では、院政を敷くことができません・・

保元の乱へ
そして、第19回、近衛天皇の崩御からちょうど1年後、鳥羽法皇も崩御し、皇室は、新天皇の後白河天皇vs不遇だった崇徳上皇、摂関家は、忠通vs頼長の陣営に分かれ、平氏、源氏の武家が、それぞれの陣営につき、鳥羽法皇崩御から、わずか一週間後、保元の乱に突入します。その糸を手繰っていたのは、信西でした。
信西.JPG

保元の乱後の摂関家
保元の乱の首謀者となった藤原頼長(演:山本耕史)が敗死となり、第23回、忠通は、清盛に対して、これまでと態度を一変、恭順の意を表明、第30回、忠通は、清盛に、嫡男:基実(演:村杉蝉之介)を清盛の娘婿にしてほしいと申し入れて、この世を去り、基実が摂関家の長に就きます。基実の正室は、清盛の娘:盛子ですから、当然、平氏寄りの立場を明確にします。第32回、しかし、その基実が23歳で早世すると、基実の嫡男:基通は(↓画像)、まだ幼かったため、藤氏長者は、忠通の次男:基房(演:細川茂樹)に移ります。
・藤原基通.JPG

しかし、第44回、1179年、基房の子:師家が8歳で権中納言に任ぜられ、基房は自らの子孫に権力を引き継がせようとします。しかし、ドラマでは、その数分後、平清盛が、平家に批判的な公家を排除し(=治承3年の政変)、基実の嫡男:基通(19歳)を内大臣・内覧・関白に任じ、翌年2月には安徳天皇の摂政とします。

ドラマでは触れられませんが、本来、治承3年の政変で、兼実(演:相島一之)も、長兄:基房(演:細川茂樹)と同様、流罪に処せられるかと思いきや、未熟な基通の補佐役として引き留められます。そして、源氏によって平家が滅ぶと、平家とのつながりが深かった基通から、再び、権力は兼実に移ります。終盤、ドラマでは、兼実はあまり登場しませんが、実は、権力者となった源頼朝は、平家の色の濃い基通を避けるための受け皿として兼実を重用し、兼実の日記「玉葉」にも、兼実と頼朝のやり取りが鮮明に残っているようです。さらに、後白河法皇の崩御後、源頼朝の征夷大将軍の宣下も兼実が行ったようです。

兼実は、ドラマの終盤、「前例がない!」という言葉を連発し、悪しき前例主義の役人のように描かれていますが、ウィキペディアによりますと、兼実は、有職故実の生き字引と言ってもいいくらい教養を身につけており、溢れんばかりの知識があったからこそ「前例がない!」だったようです。

ドラマは、清盛が主人公ですから、摂関家については触れられないまま、この時期で終わります。しかし、この後、熱田神宮の血筋が、摂関家と深く関わってきます。

ドラマ後の摂関家には熱田神宮の血縁が・・
日本の支配構造は、摂関家→院政→武家と移り変わり、摂関家の存在感が薄まる一方のまま、ドラマは終わりますが、ドラマの後、日本史的には、九条兼実(かねざね、演:相島一之)が摂関家の中で権力を握ります。

しかし、1188年、兼実の嫡男:良通は22歳で早世し、後を継いだ次男:良経も、1206年、38歳で亡くなってしまいます。良経は、百人一首で「きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに・・」を歌った人です。ただし、百人一首では「後京極摂政前太政大臣」という名前です。

長男にも次男にも先立たれてしまった兼実は、良経の長男(兼実の孫)である道家に、自分の知識を教えてゆこうと全力を尽くしたようです。実は、この過程で、熱田神宮の血が、大きく関わっています。九条良経の正室:坊門姫は、源頼朝の同母妹、つまり、源義朝と熱田神宮大宮司の娘:由良御前との間に生まれました。坊門姫は一条能保に嫁ぎ、その娘(=頼朝の姪)が、兼実の次男:九条良経に嫁いだのです。次男の嫁なので、嫁いだ時点では気楽だったかも知れませんが、1188年、良経の兄:良通が22歳で早世したことにより、弟の良経に藤氏長者の責任が回ってきます。ここに、熱田神宮の血が藤氏長者に流れることになります。時期的には、源頼朝が鎌倉幕府を開いた頃です。頼朝は幼くして親族を失っていますので、妹の坊門姫の血縁者には、さぞ思い入れが深かったことでしょう。しかし、その良経も38歳で亡くなってしまい(坊門姫は、その前に亡くなっている)、兼実は、孫、つまり良経の嫡男:道家の育成に全力を注ぎます。

この九条道家が、いろいろな縁から、摂関家の権勢を奪回することになります。実は、坊門姫には、もうひとり娘がいまして、西園寺公経(さいおんじきんつね)に嫁いでおり、その娘が、九条道家と結婚したのです。つまり、九条道家とその妻は、共に坊門姫(頼朝の妹、義朝の娘)を祖母にもつ、いとこ同士ということです。この西園寺公経が、1221年、承久の変で大手柄を挙げたことにより、娘婿の九条道家は、さらに立場が有利となり、道家夫婦から生まれた藤原頼経が、河内源氏の血が濃く流れているということで、鎌倉幕府3代将軍:源実朝なき後、4代目の鎌倉将軍に就任するのです。

ちなみに、兼実の姉:聖子(=皇嘉門院=忠通の長女=崇徳上皇の妻)は、兼実、さらに兼実の嫡男:良通を自らの養子にしていたため、崇徳院の財産が、崇徳→皇嘉門院→良通→良経→道家と引き継がれ、後々、九条家の強力な資産になったようです。
・藤原聖子.JPG

なばなの里は、九条家の領地だった?
現在、三重県桑名市の近鉄伊勢長島駅の南、なばなの里の北(長島中学)に、長島城跡があります。この場所は、長島一向一揆の拠点:願証寺があった場所でもあり、その後、織田信長の家臣:滝川一益の拠点にもなった場所でもあるのですが、もっとも古くは、鎌倉時代、ここに九条道家が館を建て、晩年を過ごしたとの記録があるようです。長島周辺が、九条家の荘園だったのでしょうか。

他にも、このルートは、日本史に相当存在感を示しますが、詳しくは、「熱田神宮ってすごい!」にまとめたいと思います。


「藤原さん」は、いずこに?
そういえば、藤原氏の最高権力者(藤氏長者)といえば、「近衛さん」「九条さん」ばかりで、いつの間にか、「藤原さん」がいません。それって、どういうことでしょうか? 

ドラマ後半で、藤原忠通の3人の子が登場し、それぞれ藤原基実(もとざね、演:村杉蝉之介)、藤原基房(もとふさ、演:細川茂樹)、藤原兼実(かねざね、演:相島一之)という設定ですが、ウィキペディアでは、それぞれ近衛基実、松殿基房、九条兼実で紹介されます。ドラマでは、そのことに触れられませんが、実は、ちょうど、このドラマの舞台となった時代、藤原忠通を最後に、藤氏長者(=藤原氏の最高権力者)から「藤原さん」はいなくなるのです。


細かすぎて見落としてしまう名古屋つながり・・藤原師長
名古屋市瑞穂区に「師長町」「妙音通」、また、名古屋の西部に「枇杷島」という地名があります。これは、藤原師長(もろなが)という人にまつわる地名です。藤原師長とは、保元の乱の張本人である藤原頼長(演:山本耕史)の長男なのですが、第22回、保元の乱で頼長が死んだ後、信西(演:阿倍サダヲ)が頼長の遺品を整理していた時、頼長の日記が出てきて回想シーンに入ります。頼長が自分の子に説諭しているシーンですが、その際の長男が師長です。
・藤原頼長の子 (2).JPG ・藤原頼長の子 (1).JPG 
ドラマでは触れられませんが、保元の乱の戦後処理で、頼長の子供たちも配流とされ、師長の弟たちは、全員、配流先で生涯を終えます。ちなみに、この時、師長の配流先は尾張ではありません。

実は、その後も、ドラマに「師長」の名前が登場します。この配流から許された師長は、よほど後白河法皇に気に入られたのか?異例の出世を遂げ、なんと、九条兼実を飛び越えて、太政大臣にまで昇進していました。しかし、第44回、平清盛が、平家に批判的な公家を排除しましたが(治承三年の政変)、その際の処分リストに「太政大臣:藤原師長」の名がありました。
治承3年.JPG
この2回目の配流先が、現在の瑞穂区井戸田です。ここでは省略しますが、琵琶の名手:藤原師長は、尾張で、いろいろな逸話を残してくれました。ちなみに、師長の戒名は「妙音院」です。

「なごや」の地名の初見とドラマ出演者
余談だらけで恐縮ですが・・国立国会図書館のHPによりますと、「なごや」の歴史上の初見は、旧広橋家本「江家次第」裏書(東洋文庫蔵)にある「建春門院法花堂領尾張国那古野庄領家職相伝系図」だそうです。平安時代末期の健春門院(演:成海璃子)所領の荘園名として登場します。

また、健春門院の所領になった経緯について、名古屋市博物館企画展「熱田と名古屋」の資料によると、「那古野荘」について・・「最初、白河院の近臣:葉室顕隆(はむろあきたか)の孫:東大寺別当:顕恵が荘園開発。その後、後白河上皇の女御:健春門院に寄進」と書かれています。

さて、大河ドラマ「平清盛」の終盤、平治の乱の首謀者のひとり藤原惟方(これかた、演:野間口徹)が登場しますが、実は、藤原惟方も、葉室顕隆の孫であり、「なごや」を荘園開拓した東大寺別当の顕恵の異母兄にあたります。

藤原経宗さんのキャラが濃すぎて、記憶に残りづらいですが・・
・藤原経宗ら.JPG ・藤原惟方 (2).JPG

また、惟方の同母妹の祐子は、平時信(演:蛭子能収)に嫁いでおり、時子(演:深田恭子)、時忠(演:森田剛)、滋子=健春門院(演:成海璃子)を生んでいます。
・時子.JPG ・平時忠 (2).JPG ・滋子(健春門院.JPG
ですから、惟方にとって、時子、時忠、滋子(健春門院)は、甥・姪ということになります。平治の乱を引き起こしたものの、清盛の大逆転に貢献した惟方と平氏の関係は、ドラマでは触れられませんでしたが、かなり濃いものだったようです。

また、「顕恵が(那古野荘)を健春門院に寄進」というのは、「おじから姪への寄進」ということになります。身内から国母が生まれるとは思いもよらず、一族として、たいへん誇らしかったことでしょう。

さらに、惟方の同母妹の頼子は、前項の藤原師長の正室ですから、「なごや」とのつながりが豊富な兄弟姉妹ということになります。

藤原惟方が信西を恨んだ理由
ちなみに、藤原惟方の祖母は、三河国司:藤原季綱の娘:悦子ですから、熱田神宮大宮司:藤原季範(すえのり、演:山口良一)といとこ同士であり、惟方の父:葉室顕頼と信西はいとこ同士になります。

親戚だから仲がよかったか?と言いますと、そうでもなく、ウィキペディア「信西」によりますと・・「鳥羽法皇の政治顧問だった葉室顕頼が死去すると、顕頼の子(=惟方ら)が若年だったことからその地位を奪取することに成功・・」とのこと。ですから、惟方が平治の乱を引き起こした動機として、ドラマで描写されている流れ以外に、信西を相当恨んでいたことが推測されます。


河内源氏の栄枯盛衰
ドラマの中で、源為義(演:小日向文世)が、「わが源氏は、代々摂関家に仕えてきた」という発言が何度かありました。
源為義.JPG ・源義朝2.JPG
また、源氏の衰退が、源為義(演:小日向文世)の資質によるもの・・と描かれていますが、河内源氏の歴史を見ると、為義の資質で片づけてしまうのは、酷な気がします。そんな河内源氏の栄枯盛衰については、「河内源氏の栄枯盛衰」に、まとめましたので、ご参照ください。ドラマをより楽しめるよう、源氏について予習してみましょう。

清和天皇の貞純皇子の子:経基王が臣籍降下して源経基となり、その子:源満仲が道長四天王と呼ばれるほど、重要な役割を果たしました。その子孫は、平忠常の乱、前九年の役、後三年の役などを鎮圧して朝廷の信頼を築き上げてきたのですが、源義家の長男:義宗(よしむね)が早世すると、次男で対馬守:源義親(よしちか=頼朝の曽祖父)に家督が移るのですが、こともあろうに、この義親が、西国で大暴れしてしまいます。1101年7月7日、義親は、鎮西に於いて大江匡房に告発され、朝廷は義家に義親召還の命を下すのですが、義家が派遣した首藤資通は、翌1102年2月20日、義親と共に義親召問の官吏を殺害。12月28日、朝廷は義親の隠岐配流と資通の投獄を決定するものの、義親は配所には赴かず、逆に、出雲で目代を殺害し官物を強奪。朝廷は、父:義家に追討を命じますが、1106年、義家の別の息子:義国(足利氏の祖)が、叔父で義家の弟:源義光等と常陸合戦に突入、そんな中、義家は、68歳で亡くなってしまいます。義家の3男:源義忠が家督を継承し、河内源氏の棟梁になるのですが、翌1107年12月19日、隠岐に配流されていた源義親が、今度は、出雲国目代を殺害、ついに、白河法皇は、平正盛に義親の追討を命じました。翌1108年1月29日、平正盛(演:中村敦夫)は義親の首を持って京に凱旋・・

さらに、義親の弟:義忠が家督を継ぐのですが、1109年、義忠も、叔父(義家の弟)の義光に暗殺されてしまい、源氏長者の座は、消去法で、義親の嫡男である為義に戻ってきていました。源氏は、これ以上堕ちる余地がない所まで堕ちてしまい、相対的に、平氏の時代が訪れていました。大河ドラマ「平清盛」は、そのような時代背景から始まっています。

第4回の放送で、平氏が昇進を続ける反面、源氏一門が冷遇される中、源為義(演:小日向文世)が、「忠盛め。24年前、(義親が)狼藉を働いて正盛に討たれた。今さらどうあがいても無駄だ。」と発言。平正盛(演:中村敦夫)が源義親の首を持って京に凱旋するシーンが、数秒間流れます。

河内源氏と熱田神宮との関係
源頼朝が名古屋の熱田で生まれたことを知り、なぜ、熱田神宮が河内源氏と結びついたのか?という疑問が生まれました。少し掘り下げて調べてみると、熱田神宮大宮司は、代々、尾張氏が勤めてきたのですが、ある時期、藤原氏に移りました。そして、現在の岡崎市を含む額田郡を開墾した藤原季兼にたどり着きました。当時、中央政界は藤原北家に牛耳られていましたが、まだまだ、全国各地は未開の土地だらけであり、それを開墾した者が、自分の所領として認められる・・それを朝廷などに寄進することによって立場を高めて行く・・という図式がありました。そして、熱田神宮は藤原南家とつながり、皇室とつながり、やがて、河内源氏とつながります。この過程を知ると、ドラマ「平清盛」が非常に楽しめます。詳しくは、岡崎市と名古屋市のつながりは徳川家康だけではない!を、ご参照いただければ幸いです。


熱田にとって最重要人物=統子内親王(=上西門院)
統子内親王(むねこないしんのう、演:愛原実花)は、鳥羽天皇(演:三上博史)の第二皇女であり、母は待賢門院(演:檀れい)です。ドラマには出てきませんが、由良御前のふたりの姉も、統子内親王(上西門院)、その母:待賢門院に仕えており、すでに、パイプは太かったようです。
・上西門院統子.JPG ・由良、統子.JPG
統子内親王のドラマでの初見は第16回。保元の乱が近づき、宮中が慌ただしくなってきている中、統子内親王と由良御前が話すシーンで、「源氏内部の確執を鎮めるのは由良の役目」と諭します。

そして、第25回(1159年)、統子内親王が院号宣下し上西門院となりますが、熱田神宮と皇室との分厚い関係を背景に、由良御前の子:頼朝も、11歳で上西門院の蔵人に就任し、殿上始め(てんじょうはじめ)の儀で、清盛の盃に注ぐシーンがあります。しかし、頼朝の晴れ舞台となった殿上始めの儀から、わずか10日後、最愛の母:由良御前は病気で亡くなり、さらにその8か月後、父:義朝も、平治の乱で命を落とします。

そして、上西門院は、第26回、平治の乱で、後白河上皇と供に幽閉されるシーン、第29回、後白河上皇と婚約した滋子に巻き髪を注意するシーンなど、地味ながら、結構、多く登場します。

ドラマには出てきませんが・・熱田神宮:藤原範忠という人
ちなみに、熱田神宮では、1137年、大宮司が、藤原季範(演:山口良一)から長男・・ではなく、五男:範雅に移りました。季範と長男:範忠との関係は、あまり良好ではなかったのかも知れません。
*下の画像は、藤原季範(演:山口良一)のものです。
藤原季範.JPG
保元の乱の前年1155年、藤原季範は亡くなったのですが、それと同時に、大宮司は、藤原範雅から季範の長男:範忠に変わったのです。父の死を機に、大宮司の座を弟から奪い取った・・かのような状況を思い浮かべてしまいます。1156年、保元の乱には、熱田神宮から義朝に援軍を出したという記録があるようですが、その時点では、大宮司は、季範の長男:範忠ということになります。その背景など、引き続き、調べたいと思います。

藤原範忠に関する記録としては・・1153年、源義朝が従五位下に叙された際、藤原範忠も一緒に叙されたとされています。また、第30回(1162年)、二条天皇を呪詛した疑いで、平時忠(演:森田剛)が流罪となりますが、実は、この時、藤原範忠も一緒に流罪となっており、大宮司職を解かれているのです。

ちなみに、範忠の流罪に伴い、大宮司職は、再び範雅の手に渡るのですが、1170年頃、流罪から許された範忠が、再度、大宮司に復帰、しかし、1178年、今度は、平時子の命令で、大宮司は範忠の孫の忠兼に移され、1181年、範雅が三度返り咲く・・という二転三転を演じたようです。それは、熱田神宮が中央政権と比較的近い位置にあり、大宮司職が、その影響を受けた証といえるでしょう。

源頼朝は、なぜ、助命されたのか?
平治の乱のあと、頼朝も斬首が当然視されるところですが、結果的に、頼朝の命は救われ、伊豆に流罪となりました。その頼朝の助命に関して、第28回、清盛の継母:池禅尼(演:和久井映見)が頼朝と面会し、その後、清盛に「頼朝が(亡くなった)家盛に似ているから・・」との理由で助命を懇願。定説も、これが主流なのかもしれません。しかし、平氏の存続が使命であるはずの池禅尼が、それを阻む因子の助命を乞うというのは、不自然な気がします。
・池禅尼.JPG
ドラマでは触れられませんでしたが、上記のように上西門院を始めとした皇室関係から、そういった圧力があったことは容易に推測できると思います。そもそも、常盤御前、義経も生き延びたわけですし、誰かの助命懇願がなくても、清盛は、頼朝を生かしたのか?あれこれ思いを巡らせるのも楽しいものです。


私が「北面武士」に関心を持った理由
ドラマの序盤、平清盛や源義朝が、北面武士に入ることができるか否か・・が取り沙汰されますが、第4回の冒頭で「北面武士」について、「上皇にお仕えし、その警護にあたる男たち。良家の子息にして、文武両道かつ容姿端麗な武士(もののふ)の華」と解説されます。

実は、私、「北面武士」に非常に関心がありました。というのは、なぜ、由良御前(演:田中麗奈)が源義朝(演:玉木宏)が結ばれたのか?という疑問の中で、由良御前の父である熱田神宮大宮司:藤原季範(すえのり、演:山口良一)の正室が、河内源氏:源行遠(ゆきとお?)の娘であることがわかり、その源行遠を調べると、初代の北面武士だった・・ということがわかったからです。つまり、由良御前で、いきなり熱田神宮と河内源氏がつながったわけではなく、その父の代で、すでに、熱田神宮と河内源氏はつながっており、自然な成り行きであることがわかったのです。ただし、由良御前の生母が行遠の娘だったか否かは不明のようです。

いずれにせよ、北面武士は、武士の中でも選りすぐりのエリートだったようで、源行遠は、白河上皇の信頼を得ていたことになります。その娘を正室に迎えた藤原季範も、皇室とそれなりの距離感にあったことでしょう。ちなみに、源行遠が北面武士だったとき、平正盛(清盛の祖父)も、その同士だったようです。

八条院(演:佐藤仁美)
ドラマの終盤、以仁王(もちひとおう)の養母として登場し、平氏追討の旗頭となって大きな存在感を示しましたが、実は、ドラマの序盤、待賢門院(演:檀れい)と美福門院(演:松雪泰子)の権力争いの中、子宝に恵まれた待賢門院に対して、美福門院(演:松雪泰子)は男子に恵まれず、第7回など、鳥羽天皇との間に子を授かったものの女子だった・・というシーンがありましたが、あのときの女子が、後の八条院です。
・八条院.JPG ・以仁王.JPG
なぜ、私が、この八条院に興味があるかと言いますと・・これまたドラマとはまったく関係ないのですが、彼女は、近衛天皇の後継天皇の候補にあがるくらい、鳥羽法皇に可愛がられた上、美福門院の莫大な遺産が彼女に流れ、後に、大覚寺統の主要財源になったとのこと。南北朝時代、大覚寺統といえば後醍醐天皇。大須観音や熱田神宮と非常に深い関係があった後醍醐天皇が、どうやって尾張と関りができたのか? そのためにも、八条院のことも、さらに調べたいと思います。

源行家(演:江良潤)も名古屋金山にゆかり・・
ドラマがクライマックスに向かう終盤、第45回、源行家が八条院、以仁王の前に現れ、以仁王が平氏討伐の令旨を書き上げます。そして、第46回の冒頭、伊豆に流罪中の頼朝にも令旨が届き、ドラマは、大きく動きます。
・源行家.JPG ・頼朝令旨.JPG
実は、源行家は、保元の乱のあと、熊野に潜伏してきましたが、この時、行家が山伏に扮して以仁王の令旨を全国の源氏残党に伝えたと言われています。当然、伊豆の頼朝に届けたのも、行家ということでしょう。

ドラマの中での行家の登場はこれだけですが、第47回、富士川の戦いで、平家は、水鳥の音に驚き、戦わずして逃げてしまうシーンがありました。その後、ドラマでは省略されますが、墨俣川(長良川)では、平家が攻勢に転じ、源氏は敗走、熱田まで逃げ延び、現在の金山の南方に砦を築いたと言われています。実は、このとき、源氏の大将が源行家でした。その熱田村砦も打ち破られ、足助まで追い詰められましたが、そこに、東から頼朝の大軍が近づいているとの噂が流れ、平氏も、いったん撤収しました。つまり、源行家は、熱田、金山に非常にかかわりが強い人物なのです。

源為朝(演:橋本さとし)も金山・尾頭にゆかり
源為義の八男:為朝は、現在、五月人形のモデルになるほど、豪傑だったようです。
・源為朝 (2).JPG ・源為朝 (1).JPG
ドラマでは、第18回で初登場しますが、保元の乱の前に、為朝が崇徳上皇側につくという情報が流れ、平氏一門の軍議は重苦しい空気に包まれているシーンがあります。保元の乱は「保元物語」に詳細が描かれていますが、保元物語は、さながら、源為朝を主役とした「為朝物語」だったようです。

この為朝、名古屋市中区の闇の森八幡を勧請したと言われており、境内に為朝の鎧塚もあります。また、長男:義次は、元興寺(金山総合駅南口の西300m)に入り、尾頭義次を名乗ったと言われています。非常に、金山にゆかりがある武将です。

伊藤忠清(演:藤本隆宏)も・・
伊藤忠清は、第2回、平清盛の元服式に初登場し、その後、ドラマの最後まで、平氏の軍事責任者として重要な役割を果たします。
・伊藤忠清.JPG
実は、熱田区のひつまぶしで有名な「蓬莱」の北に「景清社」がありますが、これは藤原景清を祀ったもので、景清は、この伊藤忠清の長男です。江戸時代、景清は、浄瑠璃や落語などの題材になった関係で、全国20か所以上、ゆかりの史跡が残っています。この親子は、源平合戦の終盤、伊勢で蜂起し、源氏をてこずらせたと言われています。
ちなみに、第21回、保元の乱で、源為朝に射抜かれてしまった伊藤忠直は、忠清の弟です。

御器所は平氏の所領だったのか?
第16回で忠盛が亡くなり、平氏の棟梁を引き継いだ清盛は、第17回、平氏が領有する荘園の一覧を見せられます。その中に「御器所」や「日置」の文字があります。
・平氏所領.JPG
まったく根拠のない史料なのか? ある程度、史料に基づいたものなのか? 昭和区御器所や中区橘の歴史を知るうえで、見過ごせない情報です。


信西の父と藤原季範の祖父は「またいとこ」
何らかのつながりはあったはず。



取り急ぎ、ここまでとし、随時、加筆したいと思います。





posted by 熱田人 at 16:44| Comment(0) | 名古屋の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月21日

半田を観光してみた(2)・・歴史マニア目線

2017年3月4日(土)、半田に行ってきました。自他ともに観光資源として認めるスポットについては、「半田を観光してみた(1)・・定番観光スポット編」にまとめましたので、ご参照ください。

半田を観光される際には、公的な観光案内に目を通されるよう、お勧めします。
0)パンフ.JPG
半田市観光協会HP
http://www.handa-kankou.com/
半田市役所HP(観光コーナー)
http://www.city.handa.lg.jp/kanko/index.html

さて、今回は、地元も誰も観光スポットと認識していない、公的な観光マップには載っていない歴史マニア目線でのポイントを、いくつか紹介してみたいと思います。

今回、半田に行くことが決まり、さっそく、半田の歴史を調べ、明治23年の地図と現在の地図を比較してみました。
1全域1890.JPG 1全域2017.JPG

人が住んでいたのは、現在の半田駅から運河にかけての広いエリアと、「上半田」と書かれているエリアだったようです。
2上半田広域.JPG 2上半田広域2017.JPG

油樽地蔵
道中、こんなお地蔵さんを見つけました。全国どこでも見られる光景ですが・・
184)油樽地蔵.JPG 185)油樽地蔵.JPG 187)油樽地蔵.JPG
由緒書には、以下のように書かれています。
「1166年前(?)の享保10年、修行僧が小川に沈んでいた地蔵石仏を拾い上げ、油樽を伏せて、その上に安置してお祀りしていた・・岩滑街道と深谷街道との分かれ道に祀られていたものを、昭和5年、知多鉄道の開通と大野街道の開通に伴い、現在地に本堂が建立された・・」とのこと。
享保10年だと1725年なので、ひょっとしたら、この案内板は1991年に書かれたもの?で、「1166年前」ではなく「二六六年前」ということでしょうか。

そこで、この油樽地蔵がある場所を検証してみましょう。
油樽1-1890.JPG 油樽1-2017.JPG
少し絞り込むと・・
油樽2ー1890.JPG 油樽2ー2017.JPG
さらに絞り込むと・・
油樽3-1890.JPG 油樽3-2017.JPG
つまり、カラオケ・ビッグエコーの東側の路地が、上半田と岩滑を結ぶ唯一の道、岩滑街道だったようです。約300年にわたり、道の安全を祈り、繁栄を見守ってこられたお地蔵さんは、今も、地元の方々によって大切にされているようです。

岩滑(やなべ)街道
名古屋と半田を結ぶ道路について、現在、阿久比川の東側に高規格道路の建設が進んでいて、道路事情が激変しそうですが、昭和時代、私が車で半田に行く際、よく利用したのは、名古屋中心部から柴田→名和→東海市を経由して南下する道路でした。

しかし、明治23年の地図には、名古屋と半田を直接結ぶ道路は見当たらず、半田⇔岩滑、岩滑⇔植大、植大⇔阿久比・・というように、隣接する集落を結ぶ道しかなかったようです。
岩滑街道1890.JPG 岩滑街道2017.JPG

ちなみに、明治時代の地図(1890年)の4年前、1886年(明治19年)5月、当初、官営鉄道(現在のJR)は、東海道ではなく中山道ルートで着工され(名古屋飛ばし)、その支線として大垣⇔武豊間が完成したのですが、それは、知多半島の丘陵地帯を避け、東側の海沿いに敷設されました。その直後の7月、やはり官営鉄道は東海道ルートに変更され、すでに中山道ルートの支線として作られていた大垣⇔大府間を東海道線として供用され、大府⇔武豊間は武豊線として、現在に至っています。しかし、東側も、西側と同様、集落と集落を結ぶ道がつながっていただけだったようです。

住吉神社周辺
明治23年の地図によると、住吉神社は、上半田の集落の北のはずれに位置しており、宮池の西側は、もっと南まで伸びていたようです。
住吉1-1890.JPG 住吉1-2017.JPG
そして、上半田とつながる道は、池の東端の一本だけで、それも、住吉神社から西に曲がっています。実は、この道、現在、入水神社の鳥居がある場所で、現在は境内になっています。まさか、この境内の道が、明治時代、唯一の道路だったとは思いもよりませんでした。
住吉2-1890.JPG 住吉2-2017.JPG 147)入水神社?.JPG
もっと、しっかり写真を撮ってくればよかった・・

星名池、星名池地蔵
名鉄知多半田駅の少し北、現在、国道247号線や名鉄知多線が走っている場所には、大きな池があったようです。
星名池1-1890-2.JPG 星名池1-2017.JPG

ズームすると・・
星名池2-1890.JPG 星名池2-2017-1.JPG 
現在の地図ソフトをズームしてゆくと、「星名池地蔵」というものがあり、この池は、星名池という名前だったことがわかりました。

そして、当日、現地に行くと、ありました!上述した油樽地蔵から300mほど南に位置します。
197)星名池地蔵.JPG 204)星名池地蔵.JPG
しかし、お地蔵さんには案内書がなく、地元の人しかわからないでしょう。それと、お地蔵さんの左側の空き地は、どうなるんでしょうか。気になります。

この付近まで池があったのでしょう。そして、池の東岸の道が岩滑街道だったようです。明治時代には唯一の道だったようですから、それ以前も、おそらく唯一の道だったのでしょう。この地域の古代や戦国時代の様子は知りませんが、有名な武将や皇室が往来する機会があったら、この細い道を通ったことでしょう。

星名池東岸・岩滑街道
星名池地蔵から北に向かうと、右手に駐車場がありますが、段差になっています。
206)星名池.JPG 225)星名池.JPG
右の画像は、北から撮ったものです。これが、池と畔の境目だったのでしょうか。

畔の道を北に進むと、すぐに名鉄をわたる踏切がありました。
214)岩滑街道.JPG
そして、踏切を渡った直後、踏切の北側では、道と建物に段差があります。これも、池と畔の境目だったのでしょうか。
215)岩滑街道.JPG

明治時代の地図では、池の東側の道は直線のように描かれていますが、現在の地図では、直線とは言えず、踏切を境に湾曲しています。つまり、踏切から北の道は、昔も池の畔で、踏切から南は、池を埋め立てた部分に道が設けられたのでしょうか。岩滑街道は、踏切のすぐ南で二股に分かれ、線路に沿って右に逸れますが、星名池があった当時は、道は、このまま、まっすぐ南に向かっていたのでしょうか。そして、上述した駐車場の所が畔だったのか?
223)星名池.JPG 星名池東1890.JPG 星名池東2017.JPG

ちなみに、北に進むと、さきほど上述した油樽地蔵に出ます。
187)油樽地蔵.JPG

星名池南西
次に、星名池の南西に周ってみました。
星名池西0-1890.JPG 星名池西0-2017.JPG

星名池地蔵を後にして、名鉄知多線、国道247号線を渡ると・・
226)名鉄踏切.JPG 227)現岩滑街道.JPG
いきなり答えが飛び込んできました。その名も「星名池越流塔」とのこと。
230)星名池南.JPG 234)星名池越流塔.JPG 236)星名池越流塔.JPG
紛れもなく、これが池の南端だったのでしょう。

明治時代の地図では、池の西側には道がなかったようですが、通りかかったお婆さんによると、「池はこの道の東側だったよ」と、即答いただきました。
238)雁宿駐車場西側.JPG

南西端では、細道が目に入ります。工事をしている人が地元の方らしく「そうだよ、その細道が旧道だよ」と教えてくれました。
239)旧道.JPG 248)旧道.JPG 

旧道を100mほど歩くと、新道と合流します。
250)合流点.JPG 星名池西1-1890.JPG 星名池西2-2017.JPG

山神社
明治時代の地図の上半田の最南端に位置する神社にも行ってみました。
3山神社1890.JPG 3山神社2017.JPG

山神社の交差点から南を見ると、明らかな高低差があり「山神社」と呼ばれる所以は、一目瞭然でした。
112)山神社.JPG 3山神社高低差.JPG
右の標高値は、国土地理院の標高地図から拾ったものですが、山神社の交差点から200mほど南下したポイントでは3.6m下がり、知多半田駅の東、セブンイレブンがある交差点とは6m以上の高低差があります。明治時代に入っても、建物は多くなかったようですから、南側からは「山の上の社」に見えたことでしょう。

山神社から南に向かう唯一の道は、神社の東側の細道だったようです。
3山神社ズーム1890.JPG 3山神社ズーム2017.JPG

この細道は、山神社の東側に、今も残っているようです。
114)山神社.JPG 115)山神社.JPG
今回、山神社の南にある旧中埜家住宅を見ることはできませんでしたが、南東側が正面だったのでしょうか。

もっと時間をかければ、正確な情報を得られるのですが、手元の資料が少なく、地元の方々に対して、大変失礼なことを書いたかも知れません。ただ、これが、私なりの楽しみ方であり、その町を知れば知るほど「好き」を上回る感情がわいてまいります。なにとぞ、お許しいただければ幸いです。




posted by 熱田人 at 14:54| Comment(0) | 愛知県の情報 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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